【日経バイオテクONLINE Vol.2969】

医学の進歩は「小さな親切」に依存している

(2018.07.20 08:00)
坂田亮太郎

 こんにちは。「日経バイオテク」副編集長の坂田亮太郎です。突然ですが、読者の皆様は「小さな親切運動」をご存じでしょうか? 私が通っていた高校ではこの運動に全校をあげて取り組んでおり、クラスには必ず1人以上の「ちーしん係(←小さな親切運動の略)」までいました。活動方針は「できる親切はみんなでしよう、それが社会の習慣となるように」です。「なんでそんなことまで学校に言われなくちゃいけないのか(#`Д´)」と、高校生だった時分の私は意味なく反発しておりましたが、今となってはなかなか素晴らしい活動ではないかと感じています。

 30年以上も前の高校の頃を思い出したのは、連日の暑さで頭がおかしくなったからではありません。今年5月に施行された「次世代医療基盤法」の法律を読みながら、これは「ちーしん」がキモになるなと思ったからです。

 次世代医療基盤法の正式名称は「医療分野の研究開発に資するための匿名加工医療情報に関する法律」です。複数の医療機関が保有する患者の医療情報を統合するための法律で、IT業界などからは「医療ビッグデータの活用がいよいよ始まる」と期待の声が上がっています。

 対象となるデータは、実に広範にわたります。ライフステージ別に見ていくと、妊婦健診データ、乳幼児健診データ、予防接種データ、学校健診データ、事業主健診データ、特定健診データ、介護データ、そして死亡診断書データと、生まれる前から死ぬまでの個人的な履歴を含みます。またレセプト(診療報酬明細書)やDCP(包括医療費支払い制度)のデータ、X線検査などの医療画像情報、そして癌や難病関連のゲノムデータなど、その人の医療にかかわるデータも網羅的に集められるようになります(くわしくはこちらをご覧ください)。

 個人を特定できないようにデータは処理されますが、データベースを統合することで価値は飛躍的に高まるのは容易に想像できます。例えば、健診のデータ。20年から30年という期間で各数値を追っていけば、生活習慣病の発症リスクをより正確に予測することも可能となるでしょう。あるいは、周産期や幼少期の環境が将来の疾病とどのように関わっているのかも、より定量的に分析できるようになります。リアルワールドデータの活用はこれまで以上にやりやすくなり、臨床試験の費用は大幅に削減できる可能性がでてきました。医療機関別に治療成績を評価できるようになるかもしれません。

 こうした成果はまさに医学の進歩というべきものです。

 医療分野でもビッグデータを活用しようというアイディアは昔からありましたが、従来は医療情報の匿名加工の責任は医療機関が負っていました。これだけ多様で膨大なデータを扱うのは、大規模な病院でも荷が重い。そこで、情報の匿名化や分析を専門的に行う認定事業者(認定匿名加工医療情報作成事業者)を国が選別することになりました。次世代医療基盤法のポイントは、情報の匿名化や分析を信頼できる専門業者に任せるようにしたことにあります。

 ただ、すべては、情報の提供者である国民の協力にかかっています。法律の中でも、第二節の第五条に「国は、広報活動、啓発活動その他の活動を通じて、医療分野の研究開発に資するための匿名加工医療情報に関する国民の理解を深めるよう必要な措置を講ずるものとする」と、医療情報を提供することに対する国民の理解の増進が不可欠としています。

 言うは易しですが、国民の理解を広く得るのは難しいでしょう。個人情報保護法の制定などの影響もあり、個人情報の取り扱いはますます厳しくなってきています。学校のクラス名簿さえも作れなくなってしまった今の日本において、病歴など他人には知られたくない情報を提供することに、どれだけの人が賛同してくれるのでしょうか。

 無論、こうした事情をよく分かった上で法律は作られています。従来、患者の情報を集める場合は、患者本人の同意を個別に得ていました。次世代医療基盤法では、患者への通知は最初の受診時に書面で行うだけで、医療機関から認定事業者に情報を提供する度ごとの合意は不要となります。つまり一度患者の了解を得ておけば、それ以降はオプトアウト(「脱退」の意味)しない限り、ずっと合意の状態が継続しているとみなされます。医療に関する情報を広く集めやすくするために、次世代医療基盤法ではオプトアウト方式が選ばれたのです。

 裏を返せば、患者本人から第三者への情報提供の禁止が求められれば、その患者の情報は削除されてしまいます。オプトアウトする人が少数にとどまれば影響は軽微ですが、多数の人が情報提供に「NO」を突き付けたらどうなるでしょうか。データベースは櫛の歯が抜けたように痩せ細り、医療ビッグデータの活用は「絵に描いた餅」と化すでしょう。

 残念ながら、私にはそのような事態に陥る近未来の姿が頭から離れません。今から断言しておきますが、芸能人や国会議員を巡る医療情報の漏洩事件が必ずや起きるでしょう。どんなに強固なセキュリティー技術を駆使したとしても、そこにデータがあり、それを覗き見したいという人間の欲求がある限り、漏れるものは漏れるのです。あるいは自分や家族の病歴などから、就職や結婚に不利益な情報が漏れてしまう事態も想定されます。

 するとどうなるか。そうした不利益をこうむるリスクがあるくらいなら、最初から医療情報の提供を拒否する人が続出するはずです。私の悲観的な予想が外れることを祈るばかりですが、人間は本質的には利己的な生き物ですから、情報を提供したくない人を責めるわけにはいきません。自分の身は自分で守るしかないからです。

 ただ、医学の進歩は数え切れない人の「親切」によって支えられてきたことを、今一度思い出したいと思います。臨床試験は、新しい医薬品や医療機器の開発のために自らの身体を“人体実験”に提供してくれる患者がいるからこそ成り立っています。献体も、将来のお医者さんを育てるために、死後に自分の肉体を解剖学の実習用材料として提供する故人や遺族の尊い意思に依存しています。

 医療に関する情報も全く同じです。自分の生きてきた記録や病歴などのデータを提供することで、間違いなく医療分野の研究開発が進みます。それは自分の子孫を含めた社会全体の役に立つことです。その本来の主旨が国民の間で広く共有されれば、次世代医療基盤法の目的も達成されるはずです。

 繰り返しになりますが、「小さな親切運動」のモットーは「できる親切はみんなでしよう、それが社会の習慣となるように」です。なかなか良い言葉じゃないですか。医療に限ったことではありませんが、小さな親切の積み重ねが社会をより良くしていくための原動力になっていく、と信じたいです。

 国民皆保険も医療保険の加入者が保険料を出し合い、病気をしても安心して医療が受けられるようにする相互扶助の精神が基盤となっています。私の目には、次世代医療基盤法も国民皆保険も目指しているところは同じと映っています。

 読者の皆様はどのようにお感じになるでしょうか。「ちーしん」と聞いてピンと来た人もメッセージをお送りください(画面最下部の「お問い合わせ」をクリックすればメッセージを送ることができます)。

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