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東京五輪まであと1年、「遺伝子ドーピング」という魔力

(2019.09.09 00:32)
2019年09月09日号
坂田亮太郎、野村和博、久保田文
イラスト:水谷 慎吾/背景画像:AlexBurakov / PIXTA
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 東京五輪が2020年に迫る中、懸念すべき事態が水面下でうごめいている。急速に進歩したゲノム編集技術が人体の改造に悪用されようとしているのだ。従来の薬物ドーピングと異なり、痕跡を残さずに、選手をデザインできる。その「遺伝子ドーピング」という魔力に選手や国家は打ち勝つことができるか。(坂田亮太郎、野村和博、久保田文)

 「リオ五輪の苦い経験が、遺伝子ドーピングを助長するという結果を招くかもしれない」。ドーピング問題に詳しい筑波大学の武政徹教授(体育系健康体力学分野運動生理学領域)は、こう警鐘を鳴らす。

 2016年にブラジル・リオデジャネイロで開催されたオリンピックは前代未聞の事態に見舞われた。世界反ドーピング機関(WADA)はロシアが国ぐるみでドーピングを隠蔽しているとして、全てのロシア代表選手の出場停止を勧告した。国際オリンピック委員会(IOC)は全面排除こそ見送ったものの、陸上や重量挙げなどの競技で100人以上の有力選手を出場禁止処分とした。

 WADAはロシア以外にも、複数の国で組織的なドーピングが行われている疑いがあると訴えている。旧東欧諸国や中国などを想定しているのは明らかだ。そうした国々は今、「遺伝子ドーピング」という新しい手法に注目している。従来の薬物ドーピングとは異なり、使用していた痕跡をほとんど残さずに、選手の身体を短期間に強化できるからだ。リオから4年、2020年に東京で開催されるオリンピック・パラリンピック大会で、遺伝子ドーピングを施されたアスリートが出場する可能性はあるのか──専門家への取材を重ね、検証した。

カール・ルイスを破ったベン・ジョンソンの秘策

 ドーピングの歴史は古い。古代ギリシャ時代から、競技者が興奮剤をドーピング目的で使用していたという記録も残っている。1928年には世界陸上連盟が興奮剤の使用を禁止したものの、違反薬物のまん延は止められなかった。1960年のローマ五輪では、興奮剤を過剰に服用した選手が競技中に死亡。これを受けIOCは、1968年のフランス・グルノーブル冬季五輪とメキシコオ夏季五輪から正式にドーピング検査を実施している(文末の「スポーツとドーピングの歴史」をご覧ください)。

イラスト:水谷 慎吾
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 科学技術、とりわけ薬学の発展がドーピングをより高度化していった。当初は競争心を高める興奮剤や疲労感を和らげる麻薬系鎮痛剤が使われてきたが、1960年代から主流となるのが筋肉増強剤だ。男性ホルモンのテストステロンを注射すれば短期間に筋肉を増強できる。アナボリックステロイドという薬物は、サプリメントのように経口で摂取するだけで筋肉を増やせる。本来は、病気や手術で体力を消耗した患者のために開発された医薬品が、選手を短期間に強化するための道具として不正使用されたのだ。

 その最たる例がカナダの元陸上選手、ベン・ジョンソンといえる。1988年のソウル五輪。世界中の注目を集めていた男子100mの決勝で、ベン・ジョンソンは陸上界のスーパースター、カール・ルイス(米国)を破って世界記録で優勝したのだ。それまでトップクラスの選手ではなかったベン・ジョンソンが豹変したのはスタノゾロールという筋肉増強剤を使ってから。尿検査の結果、陽性と判断されたベン・ジョンソンは金メダルを剥奪され、世界新記録も取り消された。

 腎性貧血の治療薬として開発されたエリスロポエチン(EPO)製剤も、1990年代に入ってスポーツ界で広まった薬剤だ。EPOは腎臓で分泌されるホルモンで、赤血球を増やす作用を持つ。腎不全で腎臓の働きが悪くなるとEPOの産生量が落ちて貧血になりやすい。そこでEPO製剤を補充することで、腎性貧血を防ぐ。これを転用して、末梢血中の赤血球の数を増やすためにEPO製剤を投与した。酸素運搬能力が高まり、結果として持久力が向上する。ツール・ド・フランスを7連覇したランス・アームストロングはEPOを常用していたとして、2012年に全米反ドーピング機関(USADA)から永久追放された。

ゲノム編集や遺伝子治療を悪用

 このように近代スポーツの歴史は、ドーピングの歴史と言っても過言ではない。繰り返されるドーピング事件に対応するため、1999年にWADAが設立された。アンチドーピングの研究に投入された金額は、2001年以降で7300万ドル(約80億円、1ドル=110円で換算)に達した。WADAによって指定されている禁止薬物は既に100種類以上(2019年1月時点)にも及んでいる。尿検査に加えて、2012年からは血液検査も義務化された。

 選手とWADAの攻防が激しさを増す中、その状況を根本から変えてしまいかねないのが遺伝子ドーピングだ。遺伝子ドーピングは人間の身体に生来備わっているメカニズムを利用するため、従来のドーピング手法に比べてより巧妙に、より精密に選手の運動能力を引き上げることができるのだ。

 例えば、筋肉の修復と成長には生体内の様々な分子が関わっていることが最近の研究で分かってきた。筋肉の再生過程ではインスリン様成長因子1(IGF-1)が細胞分裂を活発化させ、逆にミオスタチンは増殖を抑制している。ゲノム編集(注)などの手法を使えば、遺伝子レベルでこれらの分子を増やしたり、働きを停止したりすることも容易だ。筋肉に導入した遺伝子が作り出した蛋白質は尿や血液にはほとんど出てこない。出てきたとしても、もともと生体内にあった天然の蛋白質と区別がつかない。また、注射した遺伝子は血中で分解されやすく、遺伝子自体も検出が困難だ。そのため遺伝子ドーピングの痕跡を第三者が発見するのは極めて難しい。従来の筋肉増強剤は人工的に合成した化合物であるため、尿を調べれば投与したかどうかがすぐに分かったのと大違いだ。

キーワード解説:ゲノム編集
 生物の丸ごとの遺伝情報であるゲノムの遺伝情報を編集する技術。標的とする塩基配列部位を壊したり、そこに別の配列を挿入したりして、生物の遺伝情報を改変できる。遺伝子の運び屋であるベクターなどを用いて遺伝子を導入する遺伝子組換えは、多くの場合、遺伝子を導入するゲノムの部位はランダムであるため、多くの試行錯誤が必要となる。この従来型の遺伝子組換えと比較して、ゲノム編集は標的とする塩基配列部位を高確率で改変できるため、効率が良いとされる。遺伝子治療や農畜水産物などの育種に応用されている。

 「EPOの発現を誘導するような遺伝子ドーピングは、従来型の遺伝子治療と同じで技術的には十分可能ではないか」と語るのは埼玉医科大学の三谷幸之介部門長(ゲノム医学研究センター遺伝子治療部門)だ。三谷部門長のように遺伝子治療の研究者からすれば、遺伝子ドーピングはもはや特殊なものではない。

 「細胞ドーピング」という最新の再生医療を使えば、もっと巧妙に選手を強化できる。筋力強化や持久力の強化に関連する物質を産生する細胞を選手から採取し、体外で(ex vivo)大量に増殖させて試合前に体内に戻す。遺伝子を改変するわけではなく、選手個人の細胞を増やしているだけなので、もはや検出は不可能だ。

 最新のテクノロジーを使わなくても、発見されにくいドーピング手法もある。それが「腸内細菌ドーピング」だ。南太平洋のパプアニューギニア高地には、動物性蛋白質をほとんど摂取していなくても筋肉量が多い集団がいる。調べてみると、この集団の腸内には、蛋白質の原料となる窒素を固定する能力が高い腸内細菌が多かった。そのためでんぷん質のタロイモが主食であっても、この集団の人々は筋肉量が多いと考えられている。この集団の便(正確には腸内細菌叢)を移植できれば、「筋肉増強剤などを摂取しなくても筋肉量の増加が見込める」と筑波大の武政教授は指摘する。現在のドーピング検査で、便は対象に入っていない。

イラスト:水谷 慎吾
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選手の選別に遺伝子情報を使う是非

 遺伝子多型(注)が運動能力と密接に関わっていることも分かってきた。例えば、アンジオテンシン変換酵素(ACE)の遺伝子に何らかの変異があると、持久力を左右することが1998年にNature誌に発表された。運動能力に影響を与える遺伝子を探索する目的で、アスリートのゲノムを解析するプロジェクトも世界中で進行している。順天堂大学大学院の福典之准教授(スポーツ健康科学研究科准教授、スウェーデンのLund大学医学部客員研究員)は「運動能力の66%に何らかの遺伝子が関与していることが分かってきた」と指摘する。

キーワード解説:遺伝子多型
 遺伝子の表現型に致命的な影響を与えない範囲の遺伝子の個体差のこと。一般的に人口の1%以上の頻度で存在するものを指す。遺伝子多型が生じる原因としては、DNAを構成する塩基が他の塩基に置き換わる置換、塩基が失われる欠失、新たな塩基が入り込む挿入といった変異が知られている。遺伝子多型にはいくつか種類があるが、臨床上、有用とされるものに、DNAの塩基配列のうち1つの塩基が変異した、一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism:SNP)がある。

 選手が自らの遺伝的特性に基づきトレーニングしたり、向いている種目を選んだりすることは科学的なトレーニングの範囲と言えるだろう。実際、国内のあるサッカーチームでは、骨折や肉離れなど故障関連の遺伝子の解析に統計解析を組み合わせ、筋力トレーニングのメニュー決定に活用している。だが、親やコーチなどの第三者が強制的に胎児や乳幼児の遺伝情報を調べ、特定のスポーツ選手として育てるとしたらどうか。スポーツ倫理学を専門とする日本福祉大学の竹村瑞穂准教授(スポーツ科学部スポーツ科学科)は「自由参画が前提となっているスポーツの精神が根底から脅かされている」と指摘する。

 遺伝子ドーピングへの対策が一筋縄ではいかないことはWADAも認識している。2004年には科学者、倫理学者、アスリート、そして各国政府代表者などをメンバーとする専門家会合を設置し、最新の知見を基に多角的に遺伝子ドーピングへ対応している。また、遺伝子ドーピングについては違反となる遺伝子や蛋白質をあえて特定せず、競技能力を高める手法そのものを禁止している。

 究極のドーピング対策とも言うべき仕組みも導入した。それがアスリート生体パスポート(ABP)だ。これは選手個人の血液や尿のデータを常日ごろから蓄積しておき、大会前などに特定の値が変化していれば何らかのドーピングをしていた証拠になると考えられている。WADAはABPの対象となる選手の数を広げていく考えで、こうした取り組みが奏功すれば一定の歯止め効果はあるだろう。

 様々な専門家への取材を通じて、「2020年の東京五輪に遺伝子ドーピングで増強された選手が出場する可能性は低い」というのがバイオテクノロジーの専門誌である本誌(日経バイオテク)の結論だ。現時点では人間の体内で、標的となる遺伝子を高効率に改変できる技術が確立されているわけではない。また遺伝子を効率的に運ぶベクターを設計したり、製造するのも現時点ではハードルが高い。だが、10年や20年という期間で捉えれば、遺伝子ドーピングで増強された選手が増えていくのは間違いないだろう。2018年には中国で、受精卵の段階でゲノム編集を施された双子が誕生した。技術の進展が止められない限り、それを悪用しようとする人が必ず現れるのも歴史の必然だ。

 そもそもトップアスリートには巨額のスポーツマネーが集まる。個人で数千万ドル(数十億円)を超える資産を持つ選手も少なくない。選手側に勝ちたいという欲望があり、それを可能とする技術がそろいつつある。選手の背後にはスポンサーや国家も暗躍する。遺伝子ドーピングをめぐる戦いは始まったばかりだ。

 遺伝子ドーピングについて、4人の識者の見解を紹介する。

遺伝子ドーピングに関する一考察(筑波大学 武政徹教授)

生物学的に「フェア」であることをどこまで担保すべきなのか

 日本アンチ・ドーピング機構(Japan Anti-Doping Agency:JADA)によると、ドーピングとは「スポーツにおいて禁止されている物質や方法によって競技能力を高め、意図的に自分だけが優位に立ち、勝利を得ようとする行為」のことであり、JADAは「すべてのアスリートがフェアであることを支え、アスリートの健康を保護するために、ドーピングの撲滅を目指す」ことを謳っている…(続きはこちら

運動能力の66%は遺伝的要素で決まる(順天堂大学 福典之准教授)

日本国内でも遺伝子解析の結果は既にトレーニングに活用されている

 運動と遺伝子との関係が初めて報告されたのは、約20年前のことだ。1998年、Nature誌にアンジオテンシン変換酵素(ACE)遺伝子多型がACEの活性に影響し、それが持久力を左右するとの論文が発表された。その後、解析コストの低下もあって、運動能力に影響する遺伝子を探索する目的でゲノムワイド関連解析(GWAS)などが広がってきた…(続きはこちら

選手選別に遺伝情報を使って良いのか(日本福祉大学の竹村瑞穂准教授)

ジェネティックセレクションはルール上禁止されていない

 医療の急速な進歩が人類の幸福に寄与してきたのは間違いない。ただ、ゲノム編集技術は操作対象が人間であることもあり、様々な倫理的・社会的問題を引き起こしかねない。操作対象を体細胞と生殖細胞、操作目的を治療かエンハンストメントに分けると整理しやすい。遺伝子操作が身体能力の向上や増強などエンハンストメントである点が遺伝子ドーピングの特徴だ…(続きはこちら

体内でのゲノム編集効率はまだ低い(埼玉医科大学 三谷幸之介部門長)

ミオスタチン遺伝子をKOするキットは20ドルで販売中

エリスロポエチン(EPO)の発現を誘導するような遺伝子ドーピングは、従来型の遺伝子治療(cDNA発現)と同様なのでハードルは低く、技術的には十分可能ではないか。一方、標的遺伝子のゲノム編集に関しては、まだ効率が低いのが現状だ。…(続きはこちら

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