(画像:123RF)
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 北京2022オリンピック冬季大会が2022年2月20日に閉幕しました。日本代表はスノーボードハーフパイプやスピードスケートで金メダルに輝くなど、冬期五輪としては最多のメダル数を獲得(金メダル3、銀メダル6、銅メダル9)。一方、大会を通じて話題をさらったのは、ロシア・オリンピック委員会(ROC)をめぐるドーピング疑惑です。フィギュアスケートのカミラ・ワリエワ選手は団体で1位、女子シングルで4位に入りましたが、これも暫定的なもの。同選手は五輪前の大会で禁止薬物が検出されていたため、本来であれば北京大会の出場資格がありません。しかし、16歳未満の「要保護者」であることから、スポーツ仲裁裁判所(CAS)が暫定的に出場を認めていた経緯があります。

 事実関係を整理すると、ワリエワ選手の尿サンプルからトリメタジジンの陽性反応が出ました。同薬剤は心臓のまわりの血管を広げる効果があり、狭心症や心筋梗塞の治療に用いられています。一方、持久力を高めたり、興奮させたりする効果もあることから、世界アンチ・ドーピング機構(WADA)は禁止薬物に指定しています。ワリエワ選手側は同居している祖父の薬を誤って飲んだと主張しているようですが、これは苦しい言い訳です。米国の報道では、トリメタジジン以外にも2種類の禁止薬物が検出されたとも伝えています。組織的なドーピングを繰り返してきたロシアで、一体何が行われていたのか。真相を究明してほしいと心から願います。

痕跡が残らず、後から発見するのも難しい「遺伝子ドーピング」

 私がこの問題を注視してきたのは、ドーピング問題が製薬バイオ業界と切っても切れない関係にあるからです。本来であれば人の命を救うための医薬品が、国家の威信や金儲けのために悪用されていることは看過できません。さらに近い将来には、禁止薬物を使った今回のようなドーピングは“初歩的なもの”とみなされるでしょう。2月14日号の特集に取りあげた遺伝子治療などの技術を使えば、痕跡をほぼ残さずに、選手を自由にデザインできるようになるからです。この「遺伝子ドーピング」をWADAは既に禁止していますが、技術の進歩が問題を複雑にしています。

 例えば、筋肉の再生過程ではインスリン様成長因子1(IGF-1)が細胞分裂を活発化させ、逆にミオスタチンは増殖を抑制していることが知られています。ゲノム編集などの手法を使えば、遺伝子レベルでこれらの分子を増やしたり、働きを停止したりすることも容易です。やっかいなのは、筋肉に導入した遺伝子が作り出した蛋白質は、尿や血液にはほとんど出てこないこと。出てきたとしても、もともと生体内にあった天然の蛋白質と区別がつきません。また、注射した遺伝子は血中で分解されやすく、遺伝子自体も検出が困難です。そのため遺伝子ドーピングの痕跡を、事後に第三者が発見するのは極めて困難なのです。

 遺伝子ドーピングとスポーツの関わりについて、技術的な側面から倫理的な問題まで網羅された書籍が、1月末に発行されました。『スポーツと遺伝子ドーピングを問う』(晃洋書房)です。海外では数年前からホットなテーマでしたが、日本の研究者によって執筆・編集された最初の書籍となりました。

 編者の1人、日本福祉大学の竹村瑞穂准教授は「薬物ドーピングと異なり、遺伝子を改変すると後から元に戻すのは極めて難しい。仮に生殖細胞を操作すると、その影響は世代を超えて残ってしまう」と警鐘を鳴らします。2018年には中国で、受精卵の段階でゲノム編集を施された双子が誕生しました。技術の進展が止められない限り、それを悪用しようとする人が必ず現れるのも歴史の必然です。だからこそ技術を開発する側の研究者にも、こうした問題に目を向けてほしいと心から願いします。

早稲田大学 現代死生学研究所オンライン公開シンポジウム
スポーツと遺伝子ドーピングを考える:技術の現在と倫理問題
日時:2022年5月7日(土)13:00~16:00頃(参加無料)

 世界で一番速く走りたい、誰よりも高く跳びたい…こうした欲求は人間の根源的なものであり、その頂(いただき)を目指して最高峰の選手が集まるのがオリンピックです。禁止薬物を飲んだから、あるいは遺伝子を改変したからと言って、すぐにスーパーアスリートに生まれ変われるわけではありません。これまでドーピングに手を染めた選手も、競技者として血がにじむような努力をしてきたことは間違いないでしょう。しかし、最後の最後に人為的な手段で能力をエンハンスト(向上)させることは、同じ土台で闘ってきたライバルを、そして自分がこれまで積み重ねてきた努力を踏みにじることに他なりません。

 メダリストを「つくる」という行為は、人間の身体を身勝手に改造するという事と同義です。それはもはや、人間の尊厳を根本から否定していることではないでしょうか。