【日経バイオテクONLINE Vol.2697】

“抗うつ薬ケタミン”の本体はS体かR体か?

(2017.06.07 08:00)
小崎丈太郎

 ケタミンといえば、強力な麻酔薬であると同時に特異な幻覚作用故に乱用の懸念があることから麻薬に指定されている薬剤です。何しろ臨死体験の際に味わう(といわれる)幽体離脱現象を体験できるともいわれます。しかも特許が切れていることもあり(最初の合成は1962年です)、非常に安価に手に入ります。特に香港や台湾では乱用が大きな社会問題になっているいわくつきの薬剤です。一方、こうした向精神薬には表と裏の顔があります。もちろん乱用は裏の顔ですが、表の顔としては麻酔薬の他に、より低用量で使うことによって非常に優れた抗うつ効果があることが知られ、ここ数年非常に注目されています。

 何しろ、既存の抗うつ薬や電気痙攣刺激に抵抗性の難治性のうつ病に劇的に効果が現れるというのです。しかも、既存の抗うつ薬では効果が現れるまで2~3週間を必要とするのに、ケタミンの場合はわずか2~3時間。しかもそのケタミンの作用は1週間も続きます。うつ病とともに希死念慮にも有効とする報告もあり、自殺を予防する薬剤としても期待され、米国ではオフラベルでの使用が日常化しているほどです。すでに、欧米の製薬大手が開発に参入しています。

 さて、本題です。このケタミンには分子内に不斉炭素があり、S体とR体が存在します。現在市販されているケタミンはラセミ体です。これらS体とR体を光学分割したらどうか?それを追究してきた研究グループの1つが千葉大学社会精神保健教育研究センター・病態解析研究部門の橋本謙二教授(副センター長)のグループです。
橋本教授らはS体よりもR体がうつ病に対して効果が高く、より長く持続し、しかも副作用が小さいと主張してきました。当初は、この主張は受け入れられませんでした。「作用部位と考えられたNMDA受容体に対する親和性がR体よりもS体の方が高く、活性の本体はS体であろう」と考えられていたからです。事実、海外では大手製薬会社によってS体による臨床試験が進行しています。

 風向きが変わったのは2016年の5月。米Maryland大学の研究者がNature誌に橋本教授の主張を裏付ける論文を発表してからです(Nature.2016May 26;533(7604):481-6)。この論文では作用点はNMDA受容体ではなく、しかもR体はケタミン特有の副作用が出ないと結論しているのです。この論文依頼、橋本教授のもとには海外の研究機関や製薬会社からいろいろ接触があるとのことです。
S体がいいのかR体がいいのか、まだ論争は続いています。何しろ、臨床試験が進行しているS体派にしてみれば容易に旗を降ろしづらいでしょう。広義のドラッグリポジションの事例の1つといえそうですが、特異な副作用が光学分割で克服できるかどうか、興味が尽きません。なにせ、大うつ病に悩む患者は世界の全人口の16%という推計もあるほどですから。

 バイオ研究者やバイオ産業に携わる方、約5万人に向けて月曜から金曜まで週5回配信している日経バイオテクONLINEメールに、水曜日と金曜日に掲載している記者によるコラムを掲載します。

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