1992年、探索研究所(富士御殿場研究所)はこれまでの4つの研究部を組み替えて5つの探索研究所に生まれ変わり、私は探索第1研究所長となった。総勢40人の世帯だったが、そのうち15人が多かれ少なかれMRA(後のアクテムラ)に関わった。年間の総労働時間で言うと探索第1研究所全体の約25%をMRAに割いた。翌93年には創薬第1研究所と改称され、所員は3人増えたが大きな研究員の異動は無かった。この年は全体の17%をMRAに割いた。この体制は95年まで続くが、この間に後述するような多くの成果が生まれ、プロジェクトに弾みがついた。

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