米国留学を終える頃まで、時間を少しさかのぼる。



 1981年3月末、デービスの町に別れを告げ、家族と共にレンタカーでサンフランシスコ空港に向かった。日本では4月から長男が小学3年生、長女が小学校に入学というタイミングに合わせて旅程を立てた。空港に近接した町メンロパークにはStanford大学が在り、キャンパス近くにStanford Research Institutes(SRI)があった。AB50やAM682を合成した森陸司さんと高久栄さんがそこに派遣中で、その夜は森さん宅で盛大に送別会を催してくれることになった。レンタカー返却の方法などで、Gershwin研究室のテクニシャンWilfred Saitoさんと電話で会話している様子を聞いていた高久さんが、「英語、ペラペラだね!」と言った。英会話も度胸だけは身に付けたようだ。その日のうちにレンタカーの返却を済ませ、翌朝、森さんがマイカーで空港まで送ってくれた。周囲の方のアドバイスもあって、時差ボケ軽減のために途中ハワイに1泊し、ワンクッションおいて帰国した。ハワイ空港の出発ロビーのギフトショップで、ムームー姿の日本人の子供二人が流ちょうな英語でペチャクチャおしゃべりしている様子を見て店員が驚いていた。当時、末娘は5歳で、日本語が全く話せなかったのである。

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