今年春のこと。筆者は九州に本社を置くあるバイオベンチャーを取材で訪ねた。このベンチャーは、抗がん剤など新薬の開発を主力事業としている。開発の進捗状況などを尋ねているうち、大学の医学部教授も兼任する同社の会長が、「うちのCFO(最高財務責任者)がノイローゼ気味になっちゃって」と心配そうな表情を見せた。聞けばその原因は、大阪証券取引所の新興企業向け市場である「ヘラクレス」にあるという。

 同社は、ヘラクレスを上場先の第一候補として、2006年中の上場申請を目指して準備を進めてきた。昨年からはヘラクレスの担当者と、上場が認められるための条件などについて情報交換をしてきたという。CFOはその情報を基に、開発投資や収支の計画を立ててきたのだ。それが今年になって、従来よりも厳しい基準を課す意向を伝えてきたという。計画を一から見直さざるを得なくなったCFOは、過度なプレッシャーから精神のバランスを失ってしまったというのだ。

 バイオベンチャーとは、医療などライフサイエンス関連の製品・サービスを提供するベンチャーを指す。昨年から今年にかけて、ベンチャー企業向け市場がバイオベンチャーの上場基準を見直す動きが顕著になった。それに伴い、どの市場へ上場を目指したらよいのかと、右顧左眄するバイオベンチャーが目立つようになったのだ。

数年以内に上場目指すベンチャーは100社超

 現在、日本には、600社以上のバイオベンチャーが存在する。そのうち、少なく見積もっても100社を超える企業が数年以内の上場を目指している。2001年以前、上場にこぎ着けたバイオベンチャーは3社だけだった。それが、大阪大学発ベンチャーとして話題を呼んだアンジェスMGなど2社が2002年に上場を果たすと、2003年と2004年に4社ずつが上場し、バイオベンチャーブームが到来した。2005年までに、上場バイオベンチャーは15社に増加した。

 この時期は、市場がバイオベンチャーの育成を重視した時期だったと言えるだろう。上場を目指すバイオベンチャーにとっては、楽園と言ってもよい状況だった。実際、米国のナスダック市場と比較して、はるかに未熟な状態でも上場を期待できるため、米国や韓国、シンガポールなど数多くの海外バイオベンチャーが、日本の証券会社の門を叩いたほどだ。

 ただしその背景には、ITや小売りなど従来型のベンチャーとは全く異なるビジネスモデルを持つバイオベンチャーの将来性を、市場が適切に見極められなかったという面もある。ある証券会社のバイオベンチャー担当者は、「市場の審査部門にバイオに詳しい人材が皆無で、主幹事証券の言い分がほとんどそのまま通っていたようだ」と振り返る。

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 その反動かどうか定かではないが、2004年半ば以降、多くのバイオベンチャーの株価が低迷し、公開価格を割り込んだままとなってしまった。現在でも、公開価格を上回っているのは、15社中3社にすぎない。こうした状況にまず、東証証券取引所のベンチャー向け市場であるマザーズが投資家保護の方向に動いた。

 マザーズは2005年6月に、バイオベンチャーの中でも新薬の研究開発を主力事業とする「創薬ベンチャー」を対象とした審査ガイドラインを発表した。その中味は、「複数の有望開発品を持っていること」(有望開発品が1つだけでは、それが失敗すると会社の存続が危うくなる。薬の開発の平均的な失敗確率は、他業界の製品のそれよりはるかに高い)、「製薬企業などの大手企業と提携関係にあること」(薬の開発には多額のコストがかかるため、ベンチャー企業が自力で完了させるのは困難。製品化までたどり着くには、資金力のある大企業の助けが不可欠)などといったものだった。

 東証上場審査部の丸山顕義・統括主任は、「ガイド
ラインは、上場企業としてこの程度は満たしてほしいという条件を示したもの。証券会社や監査法人の意見を基に作成しており、我々が勝手に考えたのではない」と説明するが、ベンチャー側はこのガイドラインを、上場基準の大幅な厳格化と捉えた。ガイドラインの発表以前にマザーズに上場した創薬ベンチャーの中には、ガイドラインを満たしていない企業がいくつもあったからだ。

 ガイドラインの発表以前、上場を目指すバイオベンチャーのほとんどは、大証のヘラクレスよりも、東証のマザーズへの上場を希望していた。しかし、発表以降、ヘラクレスを第一志望とする企業が急増した。しかしである。今度は、ヘラクレスも投資家保護に傾き始める。2005年秋頃から、「もし上場できなければ、資金が枯渇するような財政状態の企業の上場は認めない」と言い出し始めたのだ。つまり、1、2年分の運転資金を持っていることを、上場承認の条件にしたわけだ。

 この直撃を受けたのが、ワイズ・セラピューティックスという創薬ベンチャーである。同社はベンチャーキャピタルなどから40億円以上の資金を調達。米国にラボを設立し、同時に8つの化合物の開発に取り組むなど、中堅製薬企業並みの事業展開を行った。業界では次の上場候補として誰もが名を上げる存在だった。もともと同社も、マザーズを第一希望として2005年中の上場を目指し準備を進めていたが、ガイドライン公表でヘラクレスに変更した。

 しかし、2006年以降の運転資金を上場時に調達する計画だったため、ヘラクレスからも上場を断られてしまった。結果として、2005年末に資金難に陥り、開発品目の縮小や一部従業員の解雇を余儀なくされた。同社の社長は、「まさかあのような理由でヘラクレスから上場を断られるとは思わなかった」との言葉を残し引責辞任した。

激減したバイオベンチャーの上場

 ヘラクレスは今年初め頃から、上場後に早期黒字化できる見込みであることを上場承認の条件とする意向を、バイオベンチャーに伝えるようになった。上場基準のさらなる厳格化を意味する。冒頭で紹介したベンチャーは、その影響をもろに受けた形となった。バイオベンチャーの経営者やベンチャーキャピタリストからは、「研究開発投資が先行するバイオベンチャーで、上場後の早期黒字化を達成するのは極めて困難。ヘラクレスは、これ以上バイオベンチャーを上場させないつもりか」との怨嗟の声も聞こえる。

 審査を担当するある市場関係者は、「ライブドア問題が起こったとき、何年も前に上場した企業であるにもかかわらず、上場審査の正当性を問う声が上がった。日本ではベンチャー投資といえども、投資家保護を重視せざるを得ない。マザーズもヘラクレスも、しばらくは厳格審査の方針を変えるつもりはないようだ」と話す。

 ヘラクレスへのバイオベンチャーの上場は、2005年2月以降、1社もない。マザーズでも2004年12月から途絶えていたが、6月12日に健康食品素材のファーマフーズが久々に上場した。ただし、バイオベンチャーにとって、かつてのような“楽園”は望むべくもない。(河野修己=日経バイオテク編集部)

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