東京大学医科学研究所所長新井賢一氏の年頭の挨拶を、同氏の好意によってBTJの読者にも公開いたします。バイオ研究を取り巻く環境が激動する2002年に、研究者や研究機関がとるべき方向を指し示す必読の所感です。


 読者の新春の抱負や所感、今年への期待、計画をお寄せください。1月15日までの間にお寄せいただいたご意見は、逐次Hot Newsにて掲載いたします。
 但し、条件は実名です。実名を明らかにして堂々とご意見を開陳させていただきます。議論あるところに、透明性とバイオの進歩があるはずです、
 miyata@nikkeibp.co.jpまで、どしどしご意見をお寄せ下さい。

 Biotechnology Japan Webmaster 宮田 満


2002年1月4日
2002年 年頭の挨拶
東京大学医科学研究所長 新井賢一


1.2001年の回顧
2.日本の構造改革:付加価値を持つ学術と産業の創出
3.医科学のパラダイムシフトと研究開発戦略
  a.医科学の骨組み:仮説・実証とゲノム医療
  b.研究開発の戦略:ボトムアップとトップダウン
  c.価値創造型の研究開発:目標追跡から目標発見へ
  d.大学・企業連携のフリーゾーン:価値形成への新戦略
  e.医科研の使命:発見・発明の加速とゲノム医療の推進
4.医科研の産学連携:寄付研究部門とベンチャー創出
5.探索的臨床研究ネットワーク
6.システム医科学専攻(新領域創成科学)と人材養成
7.若手・女性の活躍できる研究・教育環境
8.大学法人化と医科研の選択
9.医科学・生命科学の共同利用機構
10.ゲノム医療開発ネットワーク
11.世界と互換性のある医科研


1.2001年の回顧
新年おめでとうございます。新世紀の第2年度で、伝研創立110周年にあたる今年が、医科研と教職員の皆様にとって前進の年である事を希望しております。医科研は、これまで10年間近く、研究・先端医療の新たな環境に対応し着実に成果を挙げてきましたが、2001年にも、医科研の基幹部門とセンターの両方で、多くの優れた発見がなされたことを喜びたいと思います。また昨年4月には、付属病院が改組され、3大部門、3センター、研究病院の体制が出来上がりました。さらに医科研の発見・探索型医療を支える総合研究棟と研究病院の建設が進み、1号館の全面改修計画が策定されました。新領域創成科学研究科との協力により長年の悲願である領域横断型大学院が提案されることも大きな前進です。また定年延長に連動して教官の任期制を導入し、再任審査を実施しました。さらにミレニアムプロジェクトの実施拠点として、ゲノム・再生医療に関する文部科学省の未来開拓、科学技術振興事業団の標準SNPマッピング、理研遺伝子多型情報センター、発生再生研究総合センターとの協力など種々の事業を進めました。さらに西の京大医学部と共に医科研は東の探索型医療のセンターとして認知され、懸案であった探索的臨床研究プロジェクトネットワークの形成に向かって一歩を踏み出しました。また近代医科学記念館、合同研究棟、遺伝子治療ベクター検定施設等が完成し、知的財産活用研究室(通称、医科研TLO)も、CASTIとの協力のもとに着実に活動しつつあります。また奄美病害動物施設をヒト疾患モデルセンターの霊長類研究部門として一体運営すること、共通施設としてのコアラボラトリーを整備すること、病院・センター・基幹部門と連携する分子病理施設を所内措置で発足すること等を実行してきました。これらの諸事業に御協力いただいた医科研内外の皆様に感謝すると共に、所の取りまとめに尽力された高津、森、宮野副所長、浅野病院長、岩本副病院長、中村ヒトゲノム解析センター長、甲斐実験動物施設長、御子柴、山本、笹川各大部門長に感謝致します。また文部科学省・東大との連携に尽力された呉ミレニアム担当教授、高橋事務部長、鈴木管理課長、小川経理課長はじめ事務部門、文部科学省、内閣府など各省庁の御支援に感謝致します。医科学と先端医療の歴史的転換が進行する中で、医科研は大きな世代交代の時期を迎えています。私の所長就任以来の4年間に13名の教授が医科研を去り、14名の教授が着任されました。昨年は、三宅、伊庭、清水、中内の4教授を迎え、本年4月には井上教授が着任し、任期付き独立助教授として三木博士が間もなく着任します。今後の医科研は、教授会の40%を越える14名の新教授と独立助教授が、現教授総会メンバーや教職員と共に担う事になります。新旧融合が円滑に進み、医科研の新たな息吹が成長できるよう、よろしくお願いします。

2.日本の構造改革:付加価値を持つ学術と産業の創出
さて、2002年の医科研の課題について述べる前に、小泉内閣の発足に伴う構造改革の進行など、科学技術の側から見た最近の特徴について簡単にふれたいと思います。不況とテロにより日本と世界の未来への確信が揺らぎ、経済規模も縮小しつつありますが、日本の低落は、何も今、急にはじまったことではありません。これまでの日本の成功要因そのものに、その没落の契機が含まれていたことを冷静に分析する必要があります。例えば40年前には、日本の大学の助手の給与はアメリカのポストドクや助教授の給与の10%程度でした。したがって日本は、知識や新技術シーズを欧米に依存しつつも、産業と製品化では、安価で優秀な人材を活用して、十分に勝負することが出来ました。その後、高度経済成長と日本の国際的地位の向上につれて給与水準も上昇し、現在、日本の助手やポストドクの給与は、アメリカに匹敵するか、あるいはそれ以上になっています。しかし日本の学術と産業が、給与の上昇に見合う付加価値と高い生産性を達成することができないために、新技術シーズでの欧米との格差は埋まらず、ベンチャー主導のバイオ産業ではむしろ差が広がっています。また、日本は、欧米だけでなく、アジアとの競争に直面しています。中国など多くのアジアの研究者の給与水準は日本の10%以下ですが、新技術修得への意欲は、日本を上回るものがあり、欧米の研究開発インフラを速やかに導入しつつあります。現在の日本とアジア諸国との関係は、40年前のアメリカと日本の関係を彷佛とさせるものがあります。何故、資源を投入しても、投資に見合った成果が得られないのか、何故、日本の研究開発システムは速やかに変われないのか、などは日本の科学技術開発の構造改革の核心にふれる問題です。これらの徴候はすでに、高度成長を謳歌していた80年代から顕在化していましたが、当時の日本の学術と産業界のリーダーは有効で責任ある対応を行いませんでした。先端技術で欧米に立ち後れ、産業・製品化でアジアに遅れをとるならば、日本の産業基盤が揺るぎ、ひいては学術研究の基盤の弱体化にもつながります。日本経済の地位が大きく低下しつつある中で今やっと改革への腰が上がりましたが、自己の狭い利益を守る目先の改革で現秩序を維持しても、国際競争には対応できず、大局的には国益を損なうことになります。既存の学術と産業の既得権を擁護する古い秩序と長老社会から脱皮して、自立した若手・個人主導社会へ一気に移行することが必要です。幸い日本政府の科学技術創造立国への基本姿勢は確固としています。この機会に速やかに「価値の消費から価値の創造へ、目標追求から目標創造へ、国内向けから世界を相手に」教育・研究・開発の歴史的転換を成し遂げ、学術上の成果を付加価値の高い先端産業の創出に効率良く結び付けることが重要です。医科研は、医科学、生命科学、情報科学を通して、国民の健康の要となる先端医療を担うと共に、産業再生の鍵となる研究領域を担うことを自覚して、様々な課題に取り組むことをあらためて再確認したいと考えます。

3.医科学のパラダイムシフトと研究開発戦略
医科研は、研究の最前線に対応できる個人主体型と目的志向型の機動的研究システムと、ゲノム情報・機能から先端治療・創薬に至る探索型病院を備えたトランスレーショナル・リサーチの拠点、をめざしてきました。その改革の根本は現代医科学の骨組みが変化しつつあるとの認識に基づいています。今後、ゲノム医療を実現するためにも、ヒトゲノム配列の決定に象徴される医科学のパラダイムシフトが進行しつつあることを確認し、医科研でできることは速やかに対応し、国レベルで対応すべき課題は、政府や関係省庁にも提言してゆく予定です。

a.医科学の骨組み:仮説・実証とゲノム医療
これまでの研究法の基本である実験ベンチでの発見や患者の観察から出発する帰納的、実証的アプローチに加えて、ゲノム情報を駆使して、何が起こり得るかを予測する、演繹的、仮説提示的なインシリコのアプローチが導入されつつあります。今後のゲノム診断には、個人のゲノム情報にもとづき何が起こり得るかという可能性の予測と共に、DNA・蛋白質チップなどの発現プロファイル解析にもとづく病態把握が重要になります。これらをGenomics、Rnomics、Proteomicsなどの”Omics”(オミックス)の時代と呼んでおりますが、ゲノム科学、細胞治療、情報技術を駆使する知の枠組みの変化など、諸々の変革のもとにある深層海流を正確に把握することが、これからの医科研の航路を予測するためにも必要です。ヒトゲノム解析、ヒト疾患モデル、先端医療の3センター、ゲノム情報とプロテオーム解析、細胞バンクに関する寄付研究部門などはこの流れに沿うものです。

b.研究開発の戦略:ボトムアップとトップダウン
生命・医科学が目的志向型のビッグサイエンスの性格を備えつつあることに対応して、明確な研究開発戦略を持つことが必要になりました。特にゲノム医科学や疾患遺伝子の解析をめざすゲノム医療は戦略的、計画的にトップダウンで進めることが重要です。また個人の自由な発想に基づくボトムアップ型の研究が、研究の多様性と創造性を保証する原点であることはいうまでもありません。医科研の目的志向型の3センターと、個人研究に依拠する基幹大部門の関係においては、トップダウンとボトムアップのアプローチは、必ずしも二律背反の関係にはありません。アメリカではボトムアップはNIHグラントに見られるように、評価制と個人責任を前提にしています。しかし、日本では、ボトムアップが、アメリカとは異なる文脈で、国家公務員、終身雇用制などを前提に、個人責任を曖昧にしたままで、論じられる傾向がありますが、これは現状維持を合理化する理由に使われる危険があります。今後、日本の研究におけるボトムアップのアプローチも、評価制・任期制と個人責任に依拠する必要があり、トップダウンと適切に併用することが大切です。

c.価値創造型の研究開発:目標追跡から目標発見へ
昨年、首相の下に発足した総合科学技術会議は、科学技術の産業化への司令塔にも例えられています。ところで戦略的に進めるとは、既に姿が明白になっているプロジェクトに優先順位をつけ予算化することだけを意味するものではありません。まだ見えない萌芽的分野に、高い付加価値をつけて世に送りだす戦略を持つことが肝要です。日本の科学行政と総合科学技術会議は、欧米プロジェクトの後発・追い抜き型の発想から、未知の創造シーズを発掘し育てる先発方向に大きく舵を切る必要があります。そのためには、従来型の研究開発資金の投資から脱却し、若手と女性研究者のキャリアパスを整備し、その魅力によって、世界の研究者と企業を日本に引き付ける政策を持つことを期待します。また総合科学技術会議が総合的な施策を立案しても、各省庁ごとに分割されて予算化・執行される、という行政構造上の問題を解決することが重要です。

d.大学・企業連携のフリーゾーン:価値形成への新戦略
これまでの日本の大学と産業界の関係は、学部−職業人養成−工学知—大企業の縦型連携を基礎に、大学と大企業が向き合い、相互に補完する形にありました。しかし現在、領域横断型大学院による横断研究ネットワーク−探索人養成—科学知の横型連携を形成し、付加価値の高い新産業を創成することが求められています。そのためには、研究者の冒険心とビジネスの挑戦心の出合いの場としてキャンパスの内外に産学連携のフリーゾーンを設け、ベンチャーを創出することが必要です。

e.医科研の使命:発見・発明の加速とゲノム医療の推進
医科研は、現代医科学のパラダイムシフトにいち早く対応して、ゲノム医科学を標榜し、個人主体型と目的志向型、インヴィトロとインシリコ、ボトムアップとトップダウン、の研究を平行して推進してきました。医科研は、これまでも、生命・医科学系の領域横断型大学院による人材養成と、実験的医療とトランスレーショナル・リサーチを推進してきましたが、今はまさに、これを具体化する時期です。ゲノム医科学・ゲノム医療開発の国際競技場としての医科研の研究者には、発見から画期的治療法の開発までを俯瞰しつつ、基礎研究を進める姿勢が求められます。また医科研は、大企業やバイオベンチャーと連携して先端治療開発をめざすトランスレーショナル・リサーチの拠点でもあります。ゲノム情報に基づくゲノム医療の開発には長期にわたり多額の資金と優れた頭脳の国際ネットワークが必要であり、医科研はその仕組みを作るために一層、努力したいと考えます。また実験的な探索医療を進める上で、科学性、安全性、経済性を考慮することが重要ですが、さらに、倫理性に十分配慮することが必要です。

4.医科研の産学連携:寄付研究部門とベンチャー創出
医科研では寄付研究部門が先駆的な役割を果たしており、現在、細胞プロセシング(旭化成・ニッショウ)、幹細胞シグナル分子制御(アムジェン)、造血因子探索(中外製薬)、ゲノム情報応用診断部門(大塚製薬)、プロテオーム解析(ABJ・ミリポア)の5部門が設置され、さらに細胞ゲノム動態(BML)をはじめいくつかの寄付部門の設置が検討されています。ゲノム情報から診断・創薬への産業化には、大学が主体となるベンチャーの創出と製薬企業が主体となる薬剤のスクリーニングと治験という二つの出口があります。医科研は、研究者、資金提供者、企業が協力して、創薬の第1ステップとなるベンチャーを創出するための好条件に恵まれています。ゲノム医科学や細胞治療領域の医科研プロジェクトの事業化と白金台発の創薬型ベンチャーなど、すでに10社近くが起業をめざしています。研究病院を持たない他大学からも、医科研と協力して白金台キャンパスで、ベンチャーを立ち上げたいという多くの希望が寄せられています。最大のネックは、医科研にはベンチャーインキュベーションのスペースが決定的に不足していることです。TLOオフィスを中心にCASTIとも協力して知的財産権や試薬の分与(MTA)の仕組みを整備すること、研究者とビジネスの挑戦心が出会う産学協同・ベンチャーインキュベーション棟を確保すること、公的なトランスレーショナル・リサーチのセンター化を行い、それと協力する体制を整備することが今年の課題です。

5.探索的臨床研究ネットワーク
浅野病院長と医科研病院の努力により、探索型医療を担う研究所病院は、教育・研究・診療を総合的に行う医学部病院とは異なる使命をもつことが理解されつつあります。これは数年前からみれば、極めて大きな変化です。文部科学省と厚生労働省はトランスレーショナル・リサーチへの取り組みを強めており、文部科学省が、医科研病院と共に京大医学部に探索医療センターを設置したことも前進です。京大のセンターと医科研病院に、探索的臨床研究プロジェクトを推進する体制が整備されつつありますが、これはトランスレーショナル・リサーチを東西連携の全国ネットワークで推進する契機になるでしょう。しかし、先端治療開発とトランスレーショナル・リサーチに対する理解と進め方には大きな幅があります。現在、多くの医学部・病院がトランスレーショナル・リサーチへの名乗りをあげていますが、これは基礎研究が、究極的には人間の医療に還元されることを確認するという意味では当然です。しかし実験的探索医療を進める実際の体制は、過度に分散するのではなく、全国の医学系研究所の連携を基礎として、まず全国拠点を整備することに力を注ぎ、ヒトに投与できるGMP基準の蛋白質、細胞、核酸等の試薬製造施設や疾患情報解析機能を備えたトランスレーショナル・リサーチセンターを設置する必要があります。またゲノム医療の拠点として医科研は、疾患遺伝子情報を体系的に解析し、ゲノム医療を推進するために、東大医学部病院、厚生労働省のセンター病院群、自治体病院群と協力して、東京圏の探索医療ネットワークを構築するべきであると考えます。また未来創薬教育研究総合センターの設立をめざす東大薬学系研究科ともゲノム創薬と未来型薬局で協力する予定です。清水教授には、建築中の研究病院における探索医療の医療情報システムの設計を通して、人間の幸福につながる病院情報ネットワークをデザインしていただくことを期待しています。

6.システム医科学専攻(新領域創成科学)と人材養成
理、工、医、農、薬などを横断する生命・医科学研究には、領域横断型の大学院が必要です。情報理工学研究科の設置に際して、医科研のヒトゲノム解析センターのバイオインフォーマティクス4分野は全面的に協力しています。医科研は、94年に領域横断型の独立選考大学院「分子医科学研究科」を提案し、さらに近年、生命・医科学分野の研究所を基盤とする領域横断的な独立選考大学院や、生命学環の設置を全学に提起してきました。東大が部局を越えた生命科学教育システムを持つべきであるという認識では一致しても、現実に学部ベースの大学院研究科の利害を調整して、研究所が対等に参加する領域横断型大学院を設置することは「複雑系の特異解」を求めるような難問です。これを打開するために、一昨年から、医科研と新領域創成科学研究科の間で、粘り強い話し合いが行われてきましたが、この度、同研究科に「システム医科学専攻」を設置することを全学に提案する運びとなりました。研究科と研究所の教官のアポイントメント、医学系研究科をはじめ各系との協力講座のあり方など、細部の調整はありますが、生命科学・環境系に引き続き、新領域研究科に医科学系の横断型専攻が設置されることの意義は大変、大きいものがあります。これまで御尽力頂いた似田貝前研究科長、河野現研究科長、及び新領域研究科の皆様と、山本教授はじめ医科研の担当教官の方々に感謝します。

7.若手・女性の活躍できる研究・教育環境
医科研は、独立助教授制と任期制を導入しましたが、国際的に通用するキャリアパスと呼ぶには程遠く、助手、助教授の研究ポジションなど、国レベルでの制度設計にかかわる問題を抱えています。研究者のジェンダーについても、セクハラならぬアカハラ(academic harassment)も国際問題になっています。医科研での女性研究者の割合は169名中、16名で、10%弱であります。内訳は教授が1/37、助教授が1/43、講師が2/7、助手が12/79と、教授総会構成員では2.5%に過ぎません。10年後には、これを教授総会構成員の15%、即ち12名と、助手以上の研究者の30%、即ち50名に、引き上げたいと思います。先程、私は、日本が付加価値の高い学術研究と産業を創出するためには、古い秩序と長老社会から脱皮して、自立した若手や個人が主導する社会へ一気に移行することが必要であると述べました。そのためには、若手、女性、外国人研究者が独立できるポジションとキャリアパスが必要です。しかし、科学技術創造立国のスローガンの下に、多額の研究資金が注ぎ込まれたにもかかわらず、その多くは従来型の研究システムに吸収され、若手、女性、外国人研究者が独立できる国際的に通用するキャリアパスの姿は一向に明らかになりません。旧い研究システムを温存したままで、長老社会を通して研究資金を分配すると、科学技術の公共事業化ともいうべき現象をまねき、研究費を「受注」するために、若手研究者が「天の声」にあわせて目標を設定する「若手のひらめ化」を誘導する危険があります。大学の法人化を目前にして、昨年から間接経費が部局にも還元されることになりました。これらを活用して、若手、女性、外国人研究者の支援をはじめ、個性の輝く医科研運営をはかるために財政基盤を強化してゆきたいと考えています。

8.大学法人化と医科研の選択
行政改革の一環として国立試験研究機関の独立行政法人化は昨年から、一部が実行に移されましたが、国立大学については、その特殊性・自主性を考慮に入れた国立大学法人が、1大学1法人を前提に考えられており、2年後には実施される予定です。しかし研究開発を通しての価値創造という視点からは、政府の意図はともかく、行政側も大学側も、従来型の発想を脱皮しないまま、生き残りのための受け身の大学改革になる傾向があることは懸念されます。例えば、付置研や共同利用研は、研究所ネットワークを形成することにより、1大学の制約を越えた研究活動を展開してきましたが、1大学1法人とする場合、研究所の全国的性格を考慮した制度設計が必要です。また教育的発想から学生数に依拠して運営費を交付する考え方には、研究開発を通して新たな価値を創造する、という大学・研究所の基本的な役割への視点が欠落しています。さらに世界最高水準の大学づくりをめざして、国公私「トップ30」の大学を育成する遠山プランが提案されています。しかしアメリカにおける大学のランキングは、個々の研究者が獲得した研究費の間接経費を総合した結果として決まるものであり、行政側の政策的判断により決まるものではありません。「研究教育の国際競技場」を整備する責任は国にありますが、「個別研究領域での研究者個人による研究費獲得競争」には国は関与しません。アメリカの大学は、自己の責任と裁量に基づいて、優れた研究者をリクル−トするために、しのぎを削ります。そもそもアメリカには、国立大学も文部科学省も存在しないことを想起すべきです。日本の大学が、国に過度に依存する体質を持つことは、行政側に限らず、研究者側にも責任があります。研究者の深層心理にある、官による「国立大学」護送船団への依存心を克服すべきであると思います。医科研は、森副所長の将来計画委員会を中心に、医科研の理念に適した学術・組織・経営形態と、東大が法人格を取得した場合の医科研のあり方等について検討してきましたが、その結果を私なりに整理しました。

9.医科学・生命科学の共同利用機構
100近い大学から構成される国大協で、附置研を持つのは20大学程度であるために、法人化の議論において、1)附置研や共同利用研のミッションの全国的性格、2)研究開発による価値創造への貢献、など重要な問題が、十分に検討されておりません。最近、文部科学省直轄の国立共同利用研究所群を、人文、理工、生命系などの領域を越えて1法人の下に統合する方向が示唆されました。しかし附置研に関しては、大学側(国大協)からも、文部科学省側からも明確な方向が提示されないまま、「1大学1法人」と「共同利用機構1法人」の谷間に迷い込んでいるのが現状です。国立大学は、附置研を通して国の研究開発の一翼を担ってきましたが、附置研のあり方は、今後の国の研究開発の基本にもかかわる重要な問題です。医科研は、全国附置研所長会議の第2部会を構成する生命・医科学系の一員として、これまでも、生命・医科学系研究所のネットワーク、研究所病院を軸とする探索型医療ネットワーク、さらには日本版NIHの形成等を提唱し、医科学における研究開発のナショナルセンターの実現のために努力してきました。最近、附置研所長会議の第1部会を構成する物理化学系の研究所は、国立大学法人とは別に、学術研究振興機構の下に、学術研究機構法人(大学共同利用機関)を設置し、その中に大学附置研機構を置くことを提案しています。これは、国レベルでNIHやMRC型の先端医科学・医療システムを築くという考え方にもつながるものです。例えば、学術研究機構法人の中に、英米のMRC、BBSRC、NIHのように予算配分権を持つ「医科学共同利用機構」や「生命科学共同利用機構」を置くことができれば、附置研や共同利用研は、共同利用機構の一員として、1大学の制約を越えて、国レベルの研究開発に直接に参加することが可能になります。今やっと、国大協や文部科学省の大学に対する考え方や、大学共同利用機構に関する文部科学省案の輪郭が見えてきたところです。国レベルでの先端医療開発システムと大学院を通しての人材養成システムの構築を見据えて、東大UT会議、全国附置研所長会議、全国共同利用機構、理研・遺伝子多型情報センター、放医研等とも協力して、医科研の選択肢をまとめてゆきたいと考えています。

10.ゲノム医療開発ネットワーク
医科研に構築されたゲノム医療開発システムや先端医療研究センターは、医科研内だけで自己完結するものではありません。発見からゲノム診断、創薬、先端治療法の初期臨床開発を効果的に遂行するためには、公的なトランスレーショナル・リサーチセンターや企業と連携することが必要です。ゲノム医療やゲノム・プロテオーム創薬を推進し、バイベンチャーを立ちあげる上での障害は、能力と経験を持った人材が極端に不足していることです。システム医科学専攻など領域横断型大学院での優れた人材の養成が長期的には期待できますが、現在の要請には対応できません。そのため、医科研は、98年以来、主に社会人を対象にして、パブリックヘルスリサーチ財団や神奈川科学技術アカデミーと協力して、先端治療研修コースを実施してきました。「シグナル伝達研究とゲノム医科学の最先端と医薬品への応用コース」、「創薬のための技術戦略コース」、「未来医療開発のための実践コース」、「バイオインフォーマティクスコース」など、これまでに300名以上の受講者が修了しました。パブリックヘルスリサーチ財団と神奈川科学技術アカデミーのこれまでの支援に感謝すると共に、講義を担当された医科研内外の方々にこの場を借りて感謝します。医科研のゲノム医科学・細胞治療のプラットフォームを基礎に、SNP事業などを展開するサービス型、ゲノム診断などを開発するテクノロジー型、蛋白医工学を応用する創薬型のベンチャーなどが誕生しつつありますが、これらのバイオベンチャーは、「概念の検証」即ちProof of Principleの段階を越えれば、白金台キャンパスに限らず、お台場、横浜、かずさなどにより広いスペースを得て事業を展開することが予想されます。その基盤となる理研横浜センター、がんセンター、工業技術院(AIST)、かずさDNA研究所などが、すでに活動を展開しています。今後、医科学研究所は、これらの研究所と連携し、東京湾圏のテクノロジー・プラットフォーム、即ち「ゲノムベイ東京」を形成し、ゲノム医療開発とゲノム・プロテオーム創薬に魂を吹き込んでゆきたいと考えます。今後、かずさDNA研究所の大石所長はじめゲノム産業にかかわる方々と東京湾圏のゲノム研究所が、ゲノム医療とゲノム産業の展開について交流する場を定期的に持ちたいと考えます。

11.世界と互換性のある医科研
医科研は、先端医療の研究所として世界の研究マップに確固とした位置を占めるべく、欧米とアジアの研究者との交流を進めてきました。7年余にわたり続けられてきた日韓シンポジウムは昨年から、上海と台北を迎え、日韓中のEast Asian Joint Symposiumに発展しました。昨年3月には、世界とアジアの研究者を集めて、Life Science Frontier in the New Century: Scientists in Asia and the Pacific Rimを開催しました。これらの成果に基づき、医科研は、アジア太平洋圏の拠点研究所との交流を強力に進めたいと考えます。その第1弾として、日本とシンガポールの自由貿易協定(FTA)における生命科学交流の一環として、医科研とシンガポール大学のIMCBとの間に学術協定が締結されました。シンガポールは英語圏にあるアジアのハブとして、バイオテクノロジーと先端医療に力を注いでおり、医科研とゲノムベイ東京のよいパートナーとなるでしょう。また、IMCBのChris Tan前所長が、医科研のCOEプログラムの客員教授として招聘されておりますが、Tan博士の援助により、IMCB内にAIMBN Centreと医科研の連絡オフィスを置くことができました。シリコンバレーの東大の海外拠点オフィスと並んで、環太平洋圏の交流拠点として積極的に活用したいと考えます。本年秋には、東洋文化研究所が中心となり、ボストン、シリコンバレーに続き、UT Forumがシンガポールで開催される予定です。私は、医科研とIMCBが協力して、UT Forumで、生命・先端医科学のシンポシウムを開催したいと考えています。さらに、二国間協定に加え、アジアやヨーロッパ圏との国際ネットワーク型の共同研究を支援するよう関係省庁にも働きかけるつもりです。これらの活動を支えるために、医科研の国際交流室をさらに充実する予定です。

2002年の年頭に当たり、医科研の課題について述べました。一言でいうならば、個人の自由な発想に基づく独創的な研究を推進するとともに、ゲノム医科学を基盤にゲノム医療の実現へ力強い一歩を踏み出すことが課題です。具体的には、大学法人化と医科研の設置形態、法人化に対応する医科研運営体制の検討をはじめ、将来計画(学術、経営、キャンパス)、教育組織(大学院研究科)と研究開発組織(研究所)の明確化、医科学・生命科学の共同利用機構、生命・医科学系研究所の全国ネットワーク、産学共同利用棟とインキュベーション・センター、国際交流など、様々な課題があります。また、2002年の実行課題として、総合研究棟、病院の建設、1号館改修計画概算要求、奄美実験施設の整備、システム医科学専攻(新領域創成科学)、ミレニアムプロジェクト(SNPと疾患遺伝子・再生医療)のフォロー、ゲノム医療推進体制の整備、医科研発バイオベンチャーの創出、若手研究者支援研究資金の創出、種々の国際シンポジウム、UT Forum Singaporeへの協力と海外オフィスの整備などの課題があります。私が所長に就任してから4年近く経過しましたが、あと1年、2003年まで所長として医科研を運営する予定ですのでよろしくお願いします。これまで協力いただいた皆様方にあらためて感謝すると共に、今年3月に定年を迎えられる高橋事務部長には、大局的、大胆かつ速やかに決断することをはじめ、官僚システムとの付き合い方を4年近くにわたり、身をもって教えていただいたことを感謝致します。若手研究者に魅力ある環境と、先端医療のトランスレーショナル・リサーチの場を築くために、医科研は引き続き率先して努力する決意であることを表明して、私の新年の挨拶と致します。御静聴ありがとうございました。