ヒトゲノム計画の主要メンバーと(後列左が清水氏)
ヒトゲノム計画の主要メンバーと(後列左が清水氏)
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 慶應義塾大学医学部名誉教授でヒトゲノム計画を牽引したリダーの1人、清水信義氏が2015年6月5日、胆管がんのため死去した。73歳。偲ぶ会の開催が7月に予定されている。ヒトゲノム計画では、ヒト21番染色体と22番染色体の解読に中心的な役割を果たした。一般市民への啓発に力を注ぐ一方、研究予算配分の不合理を舌鋒鋭く批判するなど幅広く活躍。間違いなく日本のゲノム研究黎明期の巨星の1人だった。

 清水氏は1941年、大阪市に生まれた。空襲により被災したことを契機に、叔父を頼って愛知県知多市に移り、進学した愛知県立横須賀高校では生徒会長を務めた。分子生物学やコンピュータ科学など多彩な専門職をまとめる統率力は、「この生徒会長の時の経験がものを言った」と後に回想している。

名古屋大学理学部化学科に進学、DNAが複製する際にできる「岡崎フラグメント」の発見者として著名な岡崎令治氏に師事。後に学習院大学生命科学研究所長となる三浦謹一郎氏のもとで核酸化学を学んだ。1971年に渡米、Calfornia大学SanDiego校、Yale大学で研究し、Arizona大学では初めて研究室を主宰する。

1983年に三浦氏の師であった渡辺格氏の後任として慶應義塾大学医学部分子生物学教室の教授に迎えられる。1989年には数メガ塩基に及ぶ巨大DNA断片を分離する技術を確立、ヒトの第21番、22番染色体の分離に成功し、ヒトゲノム研究の礎を築いた。ヒトゲノム解読国際チームのリダーの1人として、1999年には第22番染色体、2000年には第21番染色体の解読に貢献した。

ヒトゲノムを構成する30億塩基対のうち、たんぱく質をコードする遺伝子は全体の3%から5%。残りを「ジャンクDNA」と見なし、全塩基配列を決定する事業の意義を疑問視する声が当時の専門家の間にもあった。しかし清水氏は「有用な遺伝子が働くためのスイッチや染色体がどのような構造を取って働くかは、今は不要といわれる塩基の文字列が調整している。30億塩基対のすべてを解読しなければその仕組みが分からない」と指摘し、全ゲノム解読の意義を強調するとともに、今日のマイクロRNA研究の隆盛をも予見していた。

ゲノム研究と社会との関わりにも関心を持ち、研究の意義やその成果をどのように社会に還元するかを一般市民と討議する「ゲノム塾」を開催した。また日本の科学研究予算が建物の建設費が多くを占め、研究ソフトの開発や人材育成が後回しにされる実態を批判した『ヒト「ゲノム」計画の虚と実』を出版するなど科学研究のご意見番としての役割を自負していた。

遺伝性パーキンソン病や難聴、自己免疫疾患の原因遺伝子の同定に関わるなど医学領域で成果を量産するかたわら、魚介類のゲノム研究にも関心を示す。「寿司ネタのゲノム研究」の重要性を説き、1997年には日本アクアゲノム研究会を立ち上げ、その理事長に就任。「日本の漁業にとって重要なマグロ、カツオ、ウナギには注目している」と発言し、ゲノム研究を通して水産資源の危機に警鐘を鳴らした。

2007年に慶應義塾大学を退任、名誉教授に。同年、浜松で開かれた比較免疫学会の特別講演の最中に脳卒中で倒れ、リハビリ生活に入る。翌年、週刊医学界新聞に左手でパソコンに打ち込んだ「ゲノム学者の闘病記―脳出血からの回復」を寄稿したが、その中で清水氏は『新しく生まれ変わったつもりで、今しばらく自分のやりたいこと「ゲノムを極める研究」を続けたいと願っている』と結んでいる。