例えば、ある検査を行う人が何らかのミスをする確率が200分の1とする。米国では、200分の1の確率でミスをするならば、2人にすれば理論的には4万分の1になるので、2人体制にすればミスの確率を抑えることができると考える。一方、日本は、200分の1の確率でミスが起きるならば、その個人の努力によって1000分の1の確率まで低下させることを求める傾向にある。これはその国の考え方の違いであり、社会や文化の違いに起因するものであって、どちらが良いとか、優れているとかいうものではない。

 これは、クリニカルシーケンスに関する取材の余談として、ある研究者の方から伺ったお話です。米国にも日本にも、そして国際標準(ISO)としても臨床検査体制の基準が設定されていて、基本的な考え方はどれも同じなのですが、細部を見るとお国柄が感じられる部分があるようです。確率の数値は日本が悪いことになりますが、しかし実際には医療の質が劣るわけではなく、結果的にはどちらの考え方でも良いだろうというのがこの基準の違いの結論になりましたけれど。

 思い起こせば、米国の大手チェーンのマニュアルも米国らしい考え方が色濃く反映されているのでしょうか。とても賢い方々が、どんな方でも一定の品質を担保できるように作業方法を決めるというイメージです。

 しかし、実際に米国で店舗に入ると、満面の笑みを感じられたことは(私の経験では)少なく、またどこの店舗でも同じような品質のものではありますが、多くは店頭のポスターにあるような商品からは少々遠い商品かなと感じます。日本では、結構品質はばらついていて、ポスターにあるような瑞々しさとボリューム感まではいかないものの、それに近いものが得られることもあれば、米国と同じような状態の場合もあります。最近は日本の店舗内も多国籍化しているようなので米国に近づいていっているからでしょうか。

 冒頭の考え方を聞くと、何となく米国的な考え方は良いものに感じ、個人の努力を求める日本の考え方は前時代的だと感じる部分があります。一方で、よく言われる話ですが、日本は現場が強いから個人個人の努力やこだわりによってとても良いものができる、と日本の良さとして感じるべきなのかと思うところもあります。

 さて、次号の日経バイオテクでは高橋記者が再生医療等製品の品質管理をテーマに記事をまとめる予定です。詳細は是非、本誌をご覧いただきたいのですが、重要な研究テーマの1つは培養の自動化でした。自動化と言っても、目的は、大手チェーンのマニュアルのように誰がやっても同じになるように、というものとは少々異なります。キーワードはカイゼンとビッグデータでしょうか。じっくりコツコツ1つ1つの培養における事象を吟味し、新しい事実を見出して培養に反映させている研究者がいらっしゃいます。一方で、どんなことでも大量にデータとして集めれば、細胞の運命を予測するルールを見出すことができる、ビッグデータの時代でもあります。この先、再生医療等製品の有効性と安全性から成る品質の評価や管理は、どのように育っていくのでしょうか。皆様、是非、特集をご覧いただき、ご意見、ご批判をお寄せいただけますれば幸いです。

                         日経バイオテク 加藤勇治