「10年x2」仮説と女神の微笑み
 イノベーティブ(innovative、革新的)なバイオベンチャーには共通した宿命があるようだ。多くのイノベーティブなバイオベンチャーは、洋の東西を問わず、アカデミアの優れた発明や発見をもとに起業してきた。しかし、そのイノベーションが事業(すなわち医薬や医療)として実用化するまでには、少なくとも20年の歳月がかかった。抗体医薬、再生医療、核酸医薬の歴史を振り返れば、「少なくとも20年」が誇張ではなく、「共通した」事実だということが理解できる。

 抗体医薬の扉を開いたイノベーションは、1975年のKohlerとMilsteinによるマウスを利用した単クローン抗体の発明(1984年ノーベル生理学医学賞)だが、単クローン抗体を医薬として実用化するためには、ヒトによる免疫拒絶を回避する技術の開発が不可避だった。この問題を解決したのが、キメラ抗体の創製(1994年)とヒト化抗体の創製(1997年)だった。これを契機に抗体医薬の開発は爆発的に進み、現在、世界で5兆円をこえる医薬市場に成長した。つまり単クローン抗体という画期的な発明(1975年)から抗体医薬の実現(1994, 1997年)までには、初期10年の試行錯誤と、それに続く10年のヒトの免疫拒絶を回避する技術開発の年月が必要だった。これが、本稿の表題に、「10年x2」とした理由である。

 最初の10年は出口への方向を見つけるための期間、次の10年は出口に到達するまでの期間ということができる。

 再生医療や核酸医薬の開発の歴史を振り返ってみても、「10年x2」仮説があてはまる。再生医療は、1970年代の軟骨細胞や表皮細胞の培養技術の確立を契機として、1980年代に米国で自家培養表皮を用いた臨床試験が開始され、2007年にFDAに承認された。この間、マウスES細胞の樹立(1981年)、ヒトES細胞の樹立(1998年)、マウスiPS細胞の樹立(2006年)、ヒトiPS細胞の樹立(2007年)といった再生医療にとって画期的な研究成果が報告され、幹細胞を利用した再生医療、とりわけiPS細胞を利用した再生医療の実用化に社会の大きな期待と関心が集まっている。しかし、このイノベーションも生まれて日が浅いため、今後解決すべき多くの問題が待受けている。iPS再生医療においても、「10年x2」の年月を必要とするならば、その実用化は2030年前後と考えておくのが妥当ではなかろうか。

 当社が取り組む核酸医薬の分野でも然り。1970年代の遺伝子テクノロジーの技術開発をうけて、1980年代にアンチセンス核酸が夢の新薬候補として登場し、国内外の多くの企業、製薬企業から鉄鋼メーカーに至るまで、アンチセンス核酸フィーバーに邁進した。しかし、当時は核酸を医薬として実用化するための要素技術や核酸の物性に関する基礎的な知識が欠落していた。そのため、1990年代にはアンチセンス医薬品の研究開発はことごとく失敗した。その中で唯一、米国のバイオベンチャーISIS社がアンチセンス医薬品開発のための地味な努力を継続した。その努力は、1998年の世界初となるアンチセンス医薬(Vitraven)の成功として実を結ぶこととなった。これも「10年x2」仮説の実例である。

 イノベーティブなバイオベンチャーにとっての宿命「10年x2」=20年は、実に長い年月である。そのため、日本のバイオベンチャーの多くは、その間に消滅する宿命にあるといっても過言ではない。その原因は、第一に、イノベーション自体は優れたものであっても、テクノロジー(技術)が脆弱だったり、発明者(多くはアカデミアの研究者)の慢心や無知、あるいは適応力の欠如に起因する。第2に、投資家や「官」の近視眼に起因する資金の枯渇である。第3に、製薬企業のイノベーションに対する及び腰(つまりリスクを取らない保身)に起因する提携の困難さである。そうなると、イノベーティブなバイオベンチャーにとっては、「運」と「縁」と「努力」を頼りに、女神の微笑みを待つしかない。それも1回だけではなく、3回、4回の微笑みを・・。

 当社は2003年8月の創業以来、奇跡的に昨年9月25日に東京証券取引所マザーズに株式を上場することができた。「奇跡的」と表現した理由は、創業以来の11年間で何度も財務クライシスに直面したものの、その都度、女神の微笑みに恵まれたからである。その中で、一番の女神(恩人)は、大塚製薬オーナー・大塚明彦前会長である。2007年4月、東京大学医科学研究所教授在職(当社取締役兼業)時に、大塚製薬から創業記念シンポジウムでの講演依頼をうけた。講演会の後で、大塚会長と親しく懇談する機会に恵まれ、その席上で、あつかましくも「私の夢のパトロンになって下さい」というお願いが、口をついて出てしまった。今にして思えば、実に無茶なお願いだったにも係らず、大塚会長は「わかりました」と一言で快諾。それから、今日迄、当社の根幹を支え続けることとなった大塚製薬との資本提携と共同研究が始った。私にとっては「夢」のような経験だった。「他のやらないことをやれ」という会長の一言が、今でも脳裏に焼き付いている。

 大塚明彦会長は昨年11月に病気のため逝去された。出張先のマニラでこのニュースに接した時は、無念の想いがこみ上げてきた。大塚製薬との共同研究プロジェクトの加速と新薬実現によって、会長の思いに応えたい。

 他にも、何人もの女神(恩人)に恵まれた。藤本製薬の藤本靖人社長もその一人である。当社の社運をかけた自社製品の新規疼痛剤(製品番号RBM004)のライセンス交渉が思うように進まなかった際に、縁あって藤本社長にご相談する機会に恵まれた。それから日をおかず、2013年11月の大安吉日に当社を訪問され、「うちでやりましょ」と導入を決断して頂いた。半世紀にわたって独自の医薬品事業を展開してきた藤本社長の真骨頂を垣間みた想いであった。

 当社が開発する核酸(RNA)医薬品は、アプタマーという聞き慣れない薬であるが、様々な病気に対して画期的な医薬品を生み出す事ができる。今世紀に入って、RNAの潜在力が生命科学の多くの分野で明らかになってきた。私は34年間、東京大学でRNA研究に携わってきたが、RNA研究の醍醐味は、基礎研究と応用(創薬)研究を、車の両輪の如く進めることができることである。2015年をRNA両輪開華の年にすべく努力したい。

 最後に、一言。昨年9月25日の東証マザーズ上場の際の記者会見の席上で、日経BP社の河野氏に、「東大教授が社長をやって、うまくいったためしがないのに、中村さんはどうして社長をやるんですか?」と質問された。うっ、とつまって、まっとうな答えが出来なかったので、ここで一言。「私が最初の例外になるべく頑張ります。」