新春展望、山形方人= Harvard University 脳科学研究センター

(2015.01.01 00:00)

真価が問われるビッグな脳科学プロジェクト

 今年、2015年の脳科学分野とその周辺のバイオテクを読み解くキーワードとして、筆者は、「スモールデータ」「ビッグデータ」「バッドデータ」の3つを挙げたい。これらは、脳科学分野の研究で注目される専門的キーワードではないが、これら3キーワードの観点から、世界的に巨大な予算が投入され始めた脳科学プロジェクトの真価が問われ始めると2015年を展望したい。

 2014年は、ビッグサイエンスとしての脳科学研究の世界的な打ち上げの年であったと言ってよい。米国では2013年にオバマ政権が提唱した脳科学への大型研究助成である「BRAINイニシアティブ」(注1)が実質的に始まった。欧州(EU)でも、脳科学・情報科学プロジェクトである「Human Brain Project」(注2)が本格化した。日本では、Brain/MINDSプロジェクト(「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト」、通称「革新脳」http://brainminds.jp/ )の構想が明らかにされた。そして、10月初旬に発表されたノーベル賞の自然科学系の各賞は、受賞対象が脳科学(神経科学)への貢献を評価したと同時に、今後の脳科学分野の姿を感じさせるものであった(2014年度ノーベル賞と脳科学の未来<前編:生理学・医学賞、脳内GPS機能を担う神経細胞の発見>https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20141016/179589/ 2014年度ノーベル賞と脳科学の未来<後編:化学賞と全世界の脳科学研究をめぐる動き>https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20141016/179596/)。米国において、2014年11月中旬に開かれた大統領科学技術顧問会議PCASTでは、宇宙探査、エボラ出血熱、そしてBRAINイニシアティブの現状説明が中心議題になっていた。米国の脳科学研究助成であるBRAINイニシアティブは、火星への有人探査への第一歩を踏み出したオリオン宇宙船の打ち上げ(12月5日)、エボラ出血熱対策(2014年後半)といった人類全体にとっての科学技術フロンティアの1つと見なされるようになってきている。この動きはグローバルなものであり、米国のBRAINイニシアティブ、欧州のHuman Brain Projectの連携に加え、日本のBrain/MINDSを含めた世界一丸となった脳科学研究の検討も行われている。

スモールデータを吟味する年になる
 大規模予算を使うプロジェクトであれば、世間が関心を持つ。そして、その構想がホットな話題になる一方で、現実に成果を見てみたいという欲求も高まってくる。このような理由から、2015年は、脳科学研究が「脳マップ作製」などをゴールとする真のビッグサイエンスとなるのに要となる技術を含む萌芽的で多様な研究発表、つまり「スモールデータ Small data」が、数多く世にでてくると筆者は予測している。そして、スモールデータの評価が始まり、2014年に打ち上げた脳科学研究が本当に加速するのか、あるいは失速してしまうのか、その真価が問われ始める年となるといってよい。具体的に注目される技術や研究については、次項で説明する。

 萌芽的な科学技術研究は、発表当初はあまり目立たない。科学者コミュニティでも、そうした小さな研究や技術を見つけ、「本当に使い物になるのか?」といった吟味を開始する。その中には、かつてのヒトゲノム計画において、Sanger法によるDNA配列決定技術の開発が当初は萌芽的であったように、将来のビッグサイエンスの中核技術となるものも含まれているだろう。ひとたび、使い物になる技術が見いだせれば、それを大規模化するために、自動化して、驚愕するような安価なコストにする、安全性を検討する、といった次のステップの開発が要求される。2013年初頭に発表されたCRISPRによるゲノム編集技術は、論文発表からわずか2年弱の間に、脳科学を含めたバイオ研究に大きなインパクトを与え、既に商業利用も含めた大規模化が進んでいる。こういう評価と大規模化をスピーディに行うためには、ファンディングを含めたサポート体制や柔軟な人材活用システムの構築が大切だ。

 2014年夏には、欧州のHuman Brain Projectについて、欧州の科学者を中心に、その目標についての懸念がオープンレターの形で公表され、学術誌だけでなく、英Guardianなど一般新聞でも報道された。ビッグサイエンスについての建設的な批判は、その構想のポリッシュアップに効果があるだけでなく、それへの反論などの議論を深めることで、科学者コミュニティや社会の中での認知度を高めることにつながるので、大切なステップであると筆者は考える。そして、ビッグサイエンスの運営リーダーは、アカウンタビリティや批判を謙虚に受けとめる体制を保ち、プロジェクト修正の余地を常に残しておくことが大切である。この点で、研究者コミュニティとの対話や議論を通じて、当初の構想からの修正を行ってきている米国と欧州のビッグな脳科学のプロジェクトを動かしているリーダーシップを筆者は高く評価したい。スモールデータの吟味の結果も、こうした科学的なメリットを重視する体制ならば、柔軟に取り入れられていくはずである。

異色コラボによる脳科学ビッグデータ時代が到来する
 米SCIENCE誌の「Breakthrough of the Year 2014」の1つとして、理研・脳科学総合研究センター(BSI)ディレクターを兼任するMITの利根川進教授らのグループによる、オプトジェネティクスによるマウスの「記憶を書き換え」が紹介された。ニューロンの活動を光で制御するオプトジェネティクス(Optogenetics)には、チャネルロドプシンなどの分子遺伝学的なタンパク質ツールの開発が必須であった。一方で2014年度ノーベル物理学賞の対象ともなったLED光源の存在も前提としてあった。オプトジェネティクスのような破壊的イノベーションは、異なる分野で生まれた革新的技術やアイデアの組み合わせによってもたらされることが多く、同様な例は過去において枚挙に暇がない。

 米国のBRAINイニシアティブでも、これまでバイオとは直接関係がなかった情報技術などの民間企業が、既に積極的に関与している。例えば、脳科学に有用なデータベースを作製し続けているAllen Brain Institute (米国Seattle)は、米Microsoft社の創業者の一人であるPaul Allen氏の財団によって設立された。2014年12月には、この脳科学研究所の成功と科学コミュニティにおける賞賛を元に、Paul Allen氏は、Allen Cell Science Instituteという新しい細胞科学研究所の設立を発表し、バイオテク業界でも大きな話題になっている。BRAINイニシアティブには、米Google社、米IBM社などの企業も参加しており、異色コラボを促進する場ともなっている。また、スイスを拠点にし、脳機能シミレーションの創薬への応用が目標となっている欧州のHuman Brain Projectは、Intel社の新型ニューロモルフック(Neuromorphic)チップなどの研究開発と関係している。

 さて、米国のBRAINイニシアティブの目標とされる脳マップ作製には、マップ要素のカタログ作り、つまりヒトの脳にある1000億個以上とも言われる多数のニューロンの個性、結合性、活動についての大規模データが必要である。これらは、「ビッグデータ(Big Data)」の典型であり、様々な数理的な解析やシミレーションの対象になる。その第一歩としては、個々のニューロンの違い、ニューロン間の結合性(コネクトーム Connectome)、多数ニューロンの神経活動観察の3点について、大規模データ取得を可能にする鍵となる技術の開発が要求されている。2015年は、こうした技術開発において異色コラボによるブレークスルーが予想される。

 1点目のニューロンの個性データについては、例えば発現している遺伝子やタンパク質を、それぞれのニューロン単細胞レベルで解析し、将来的にマウスやヒトの脳にある全ニューロンそれぞれの個性を明らかにできるような低コスト技術の出現に筆者は注目したい。2点目のコネクトームを解析するコネクトミクス(Connectomics)では、電子顕微鏡やナノスコピー(Nanoscopy)などの更なる改良や、それに役立つ分子遺伝学技術や観察試料処理法の開発が期待される。3点目の多数の活動しているニューロンを観察するデータの取得法の開発では、大規模生理学(Large Scale Physiology)の技術開発と適用が世界中で競われるだろう。つまり、脳が特定のタスクをしている時に、無数のニューロンの中で、どのニューロンが活動しているかを、時間的空間的に高解像度で調べる技術である。ここでは、神経活動を感知するセンサータンパク質やオプトジェネティクスなどを利用した方法と革新的光学的技術が組み合わさった方向(ニューロフォトニクス Neurophotonics)が面白くなりそうだ。

 こうした基礎研究を達成するために、思いもよらなかったような異色コラボによって破壊的イノベーションを生み出すような仕掛けの構築が世界的に盛んになってきている。2015年は、従来の学際的共同研究とか、分野融合とか、そういう既成分野を温存する人的交流や組織ではなく、研究分野の壁を完全に取り払ってしまう「分野破壊」を標榜する人材の育成や研究組織の設立が盛んになるのではなかろうか。ここでは、細かな研究の内容を短期的にサポートするというより、「人を重視してサポートする」、「最も困難な問題に挑む」というマインドセットがこれまで以上に大切になってくるのではないか、と思う。

 さて、米国BRAINイニシアティブでは、当面は特定の疾患の研究には焦点を当てず、脳マップなどの基礎的な大規模データの収集をすることが当面の目標になっている。欧州Human Brain Projectも特定の疾患には集中しない点では同様だ。しかし、その先にある創薬や治療法といった応用も視野に入っているのは論を待たない。創薬では、治療薬のターゲットの数が少ないとされる精神・神経疾患、発達障害などにおいて、全く新しいターゲットの発見が喫緊の課題となっている。この目的のために、脳マップなどの情報を、NGSを含む大規模遺伝子解析データとどのように組み合わせて利用していくか、という動向が注目される。治療法では、脳マップの情報をEBM(根拠に基づいた医療)に如何に活用していくか、という観点が重要になってくる。更に、米国のDARPA(国防高等研究計画局)が主導しているプロジェクトSUBNETS(脳の神経活動を検出したり、操作できるデバイスを埋め込むことで、患者を治療しようという構想)のようなBMI(Brain-Machine Interface)周辺のトランスレーショナル研究の進展が期待される。脳関連データと人間活動(経済学、教育、法学など)との接点も、ますます論じられるようになるだろうが、ここでは科学コミュニケーションのあり方、疑似科学、倫理の問題にも注視したい。

バッドデータ問題が顕在化する
 2014年は、治療薬臨床試験の信頼性や理研の論文問題が時事ニュースとなった。特に、日本で大きく報じられたSTAP細胞問題は、研究者の研究倫理という問題に留まらず、科学技術行政、研究組織ガバナンス、研究者とメディアやパブリックとの関係、更には大学院などの教育に至るまで、多くの研究者がそれとなく感じていた問題を、具体的に世に問いかけたという意味で強烈な印象を与えた。

 こうした問題とも関係しているが、科学研究では、学術論文発表前の学会発表、発表された論文、あるいは蓄積されたデータベースなどに、様々な原因で生じた「間違い」があり、再現性がなく、信頼性が低いものがあるというのは、研究者の間ではある程度常識となっている。こうした「間違い」の原因の一部は、言うまでもなく、研究者が意図的にデータを捏造、改ざんといった研究不正によるものである。しかし、実際は、このような間違いは、気づかれないうちに、研究不正以外の様々な原因で、世の中にあるデータベースや科学的知見には相当量蓄積されてきているのが現状だ。ここでは、まとめて「バッドデータ問題」と呼んでおきたい。

 研究不正論文以外のバッドデータとしては、「病的科学 Pathological science(Irving Lanmuir, 1953)」とも言われるデータ取得における観察者バイアスなどによって生じるものは古くから指摘されてきている。また、技術的な理由による質の低いデータなどの混入、統計学的手法の間違い、計算ミスなどが気付かれずに発表されたデータ解析の誤り、実験試料の取り違え、アーチファクトの混入などもある。更には人為的にバッドデータを作ることを目的としたハッキング、サイバーテロなども想定される。パブリックなデータベースに登録されたゲノム配列のデータなどを思い起こせば、その中身を検討していくと、正確さにかなり不安があったのはバイオ研究者なら記憶に新しい。これは、技術的な原因によって生じたバッドデータである。脳科学関係のデータベースについても、様々な種類のバッドデータの問題が認識されてきている。それが生じた原因とは無関係にバッドデータの存在は、科学的知識や科学研究の発展や信用に悪影響を与えることは言うまでもない。そして、研究不正以外のバッドデータ問題は、研究者に「倫理教育」を実施したところで解決されるものではない。

 バッドデータ問題が顕著に認識されるのは、研究論文の再現性の問題である。この問題は、米国NIHなどで議論が本格化している。研究論文雑誌の編集でも、再現性を議論するためのネガティブデータの投稿や、実験の生データを論文と一緒に公開するように求めるという取り組みが始まっている。データベースを標準化して、データの質についての透明性を高めることは、データベースの利便性を高めるだけでなく、バッドデータの可能性を喚起するので、1つの対策にもなるだろう。このように、2015年は、データの正確さや再現性といったバッドデータ問題の対策に体系的に取り組む必要性が、これまで以上に顕在化すると著者は感じている。その理由は、バッドデータ問題は、大規模で正確なデータの存在を前提とするビッグデータなどのコンピューティングの興隆と表裏一体の関係にあるからだ。

 果たして、2015年、まだちっぽけな脳科学を真のビッグサイエンスに大化けさせることになるグッドデータが出てくるだろうか、楽しみにしたい。

(注1)
 BRAINイニシアティブは、2013年4月に、米国オバマ大統領によって提唱された脳科学の大規模推進計画。ヒトのすべてのニューロンの活動地図を作製することがゴール。BRAINは、Brain Research through Advancing Innovative Neurotechnologiesの略であり、今後10年間で、計30億米ドル以上の予算が投入される。政府機関としては、NIH、NSF、DARPA、FDAなどが関与し、更に民間財団や民間企業も参加する。アポロ計画やヒトゲノム計画にも相当する大型プロジェクトを目指しており、経済効果も注目されている。

ホワイトハウスのホームページ上のBRAINイニシアティブのサイト
http://www.whitehouse.gov/brain
NIHのホームページにあるBRAINイニシアティブのサイト
http://www.braininitiative.nih.gov/

(注2)
 Human Brain Project(HBP)は、2013年に開始されたEUの10年間の脳科学情報科学プロジェクト。代表者は、スイス・ローザンヌにあるÉcole polytechnique fédérale de Lausanne(ローザンヌ連邦工科大学)のHenry Markram博士。計16億米ドルの予算で、スーパーコンピュータによるヒト脳機能のシミレーションを行うことで、創薬などに新しい手法を提供する。ヨーロッパの神経科学者を中心にその現実性について懐疑的な見解も存在する。

HBPのホームページ
https://www.humanbrainproject.eu/

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