ヒトの脳には一千億 (1011) 個とも推定される神経細胞が存在し、それぞれは約一万 (104) 個の接点(シナプスと呼ぶ)で他の神経細胞と繋がっているという。つまり、脳の中には1015個というとてつもない数の接点によって構成される想像を絶するほど複雑な神経回路網があることになる。まさに「内なる宇宙」と言われる所以である。このような神経回路網から認知、行動、記憶、情動、意思などの脳機能が生じ、その異常は認知症、統合失調症、うつ病等現代社会で大きな問題となっている疾患に関与していると思われている。

 このように複雑な脳の機能を解明しようとする研究は1960年代、70年代には主に微小電極による神経信号の記録といった電気生理学的研究或いは染色した神経細胞を顕微鏡で観察する解剖学的研究が行われ細胞レベル、シナプスレベルの知見が得られた。1980年代になるとそれまでに発展してきた分子生物学的方法を取り入れた研究が進展し、シナプス受容体や神経伝達物質といった物質レベルの研究が進んだ。1990年代以降は機能的核磁気共鳴画像法等によるヒト脳機能の画像化研究が大々的に展開され、種々の精神活動に対応したヒト脳の活性化部位の同定などの研究が進んだ。しかしながら、脳機能を担う実体である神経回路の機能解明は回路網全体の活動を明らかにする方法の欠如ゆえに本格的な研究は最近まで進展しなかった。

 物質レベルの研究や脳画像研究に比して停滞していた神経回路研究のターンニングポイントとなったのは、下村脩先生らによる緑色蛍光たんぱく質の発見と、08年に同時にノーベル賞を受賞したロジャチェン教授らによる神経活動を計測できる蛍光たんぱく質の開発であった。その結果、従来の方法では困難であった多数の神経細胞の活動を同時に記録する方法が実現することとなった。さらに、光刺激によって開閉するイオンチャネルを神経細胞に導入し特定の回路の神経細胞を光で刺激或いは不活化する方法が実用化されるに及んで神経回路の機能研究を大きく展開し、複雑な回路網の全容を解明しようとする機運が熟してきた。

 このような脳研究の状況の中で2013年2月にはオバマ米大統領が議会演説でBrain Research through Advanced Innovative Neurotechnologies (BRAIN) Initiative と呼ばれる構想(NIHなど政府関係機関合わせて10年で約10億ドルの規模、その他民間機関も出資) を打ち上げた。一方、欧州では今後10年の大型旗艦研究プロジェクト2つのうちの一つとしてHuman Brain Project(10億ユーロの規模)が採択されスタートした。日本では2013年5月ごろより「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明」プロジェクトが文部科学省に設置されている脳科学委員会を中心に検討されてきた。さらに中国においても大型脳研究が構想されているという。このように世界的にほぼ同時に大型脳研究が動き出そうとしているのは決して後追い、追随、あるいは付和雷同といったものではなく、上述した脳研究の歴史的発展段階において今まさに神経回路の全容が解明できる段階に達したという世界の脳研究者の共通の認識と熱い思いがあるからである。

 本年は米国のBRAIN Initiativeプロジェクトが動き出そうとしており、すでにNIHによる研究提案の募集も始まっている。日本でも平成26年度より「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト」を本格的に開始すべく準備が着々と進められている。その意味で、本年2014年は革新的技術開発による神経回路機能全容解明研究元年となり、上述のように「内なる宇宙」を構成する神経回路とその働き、ひいては神経回路異常によって生じる脳疾患の病因解明が飛躍的に進む年になると思われる。