皆さん、お元気ですか。

 参議院選挙は前評判通り、自民党の圧勝でした。これでいままでの政権を悩ませていた衆参両院のねじれ現象による、立法の機能不全は一掃される見通しです。実は生命科学研究の指標ともいうべき、ライフサイエンス関連試薬の売り上げはここのところ低下しておりました。これは前年度の15カ月予算が切れ、新予算の執行が滞っているために他なりません。確かに今年の通常国会では予算案は衆議院の再可決で成立しました。しかし、予算を執行するためには予算関連法案の成立が必要で、これをしっかりと成立させずに、与党が不信任決議を可決、一挙に国会が機能停止したためです。こうした異常事態は今後少なくとも3年は一掃されるかと思うと、自民党に拮抗する野党の誕生による健全な二大政党制を未だ夢見つつ、政権が安定することも悪くないと、皆さんが実感する日も近いと考えております。単なる保守への回帰ではなく、自民党が既得権を整理し、世の中を変えることを祈っております。さしあたってはTPP、中でもバイオテクノロジーの死命を制する知財問題が踏み絵となるでしょう。

 さて個の医療です。

 2013年6月13日の米国最高裁判所の乳がんと卵巣癌の発症予測に貢献する遺伝子、BRCA1と2の特許を無効査定した判決は、全世界に静かに大きな反響の環を広げつつあります。
http://www.forbes.com/sites/danielfisher/2013/06/13/supreme-court-rejects-human-gene-patents-sort-of/

 BRCA1とBRCA2は米国Utha大学のグループが、家族性乳がんや卵巣癌の患者家系に突然変異が集積する遺伝子として発見したものです。大学が取得した特許を米Myriad Genetics社がライセンス獲得、BRCA1と2の受託シーケンスサービスを事業化し、ビジネスとして極めて好成績を挙げています。問題は米国でも3000ドルは必要とした高額な解析価格です。企業活動に疎い医学研究者などからは、社会的に問題な価格と突き上げられてきました。しかし、この事業が成立していたのは、今回無効にされたBRCA1と2の特許の独占使用権をMyriad社が確保していたからに過ぎません。同社は無数の周辺特許を出願しており、最高裁の無効判決後である7月12日にBRCA1と2の解析に参入した競争企業を特許侵害で提訴したほどです。同社は全米でもっとも臨床遺伝カウンセラーを雇っているなど、人材に対する投資、さらにはBRCA1と2の遺伝子検査機器への投資やその品質確保のための投資や人材養成、さらには広範な臨床研究などによるBRCA1と2の突然変異と乳がんや卵巣癌の発症リスクの疫学的な研究など、BRCA1と2による診断サービスの事業化に相当な投資を行ってきました。こうしたリスクを覚悟の投資をMyriad社が行うことができ、今まで姿形もなかった卵巣がんや乳がんの再発リスクを推定するサービス産業を誕生させえたのは、特許による技術の独占であったのです。

 しかし、時代は変わりました。中でも2003年4月のヒトの全ゲノム配列の解読は、ヒトの遺伝子やその自然突然変異を、ただ解読しただけでは、発明の要件を満たす人為的な創作性がないという法的な判断を容易にするものだったのです。米国最高裁判所が特許無効とした最大の理由も、「Myriad Genetics社は人為的な発明行為をなにもしていなかった、ただ自然に起こった突然変異の場所とその遺伝子を突き止めたに過ぎない」というものです。勿論、その裏返しとして、人為的な操作が加わったcDNAの作成やPCRのための合成プローブ、あるいはヒト遺伝子を発現ベクターにクローニングし、遺伝子操作によって製造された組み換えたんぱく質などは、特許性があるという判断も、同時に米国最高裁判所は明らかにしています。勿論、この自然と人為の境も今後の技術進歩や社会の成熟度によっても変わるだろうと思います。遺伝子特許の使命は終わったのかも知れません。

 今や米国を中心としたバイオ産業を支える知財のインフラは、単なる遺伝子解析だけでは、それを特許にしない方が、バイオ産業を発展させ、社会にとっても幸福を増大するという判断を下したと考えるべきでしょう。判決が出てから1カ月も悩みました。よくよく考えてみましたが、私は今回の米国最高裁判所の判断は正しいと考えます。何故なら、今や全ゲノム解析の時代に突入したためです。過去の遺伝子特許がベンチャー企業に独占を与え、遺伝子診断サービスという画期的な産業を創製し、がんのリスク診断による予防的乳房や卵巣の切除という新しい医療によって、多くの患者が救われたことも事実ですが、今や遺伝子特許はその使命を終えようとしているのです。全ゲノム解析の時代には遺伝子特許が新しい全変異プロファイリングによる医療という究極の個の医療の実現を阻む可能性があるためです。

 もし、遺伝子毎や遺伝子変異毎の特許を認めた場合、ゲノム上に変異や染色体構造の変化に全て特許権が設定されていたら、とてもじゃないがクリニカルゲノムシーケンスによる全ての変異プロファイルを解析するだけで、途方もないライセンス料を要求されることになります。これは社会にとって誠に不都合です。また、企業にとっても、クリニカルシーケンスの市場が妨げられるため、実際のライセンス収入は得られないという不都合な状況に陥ります。現段階では、特許料収入を確保している特許庁だけが、遺伝子特許で収益を上げるという病的な構造が出来上がっているのです。米国は米国連邦裁判所のいわば人道的な無効判決によって、遺伝子特許とクリニカルシーケンスのジレンマを見事に解消したといえるでしょう。米国は究極の個の医療の実現をさらに一歩進めたのです。

 では日本はどうか?日本の大学の研究者が一斉にBRCA1と2の遺伝子解析をMyriad社からライセンスを受け、我が国で独占的な事業を展開しているファルコバイオシステムズの価格より安い、受託解析サービスを始めるべく準備を進めています。しかし、日本の研究者は大いなる誤解をしています。賢明な判断をしたのは米国の裁判所であって、我が国ではないのです。実は、Myriad社は我が国にもBRCA1と2に関する遺伝子特許を8件申請しています。5件は拒絶査定を受け、現在、係争中ですが、Myriad社のBRCA1と2に関する以下の3つの特許は我が国で特許として成立、既に登録されています。法的にはまだ、Myriad社の特許は我が国で十分生きているのです。
特許公表2002-502227 乳癌および卵巣癌の素因の診断方法
特許公表2000-500985 第13染色体連鎖-乳癌感受性遺伝子
特許公表平10-505742 17q-連鎖乳癌および卵巣癌感受性遺伝子
http://www2.ipdl.inpit.go.jp/begin/be_list.cgi?STYLE=SIMPLE&sBpos=1&S_WORD1=BRCA+%83%7E%83%8A%83A%83h&R_TYPE1=02&A_HIT=8&U_HIT=0&R_AID=I00462002902&R_UID=I00041002101&sTime=1374644860027

 我が国でもそろそろクリニカルシーケンス時代の遺伝子特許のあり方を、特許庁は研究しなくてはならない時代に入ったといえるでしょう。その際は、既に特許化されている遺伝子特許の扱いも検討しなくてはなりません。企業の競争力はDNAの配列解析よりも患者と変異のデータベースや解析と情報処理の品質管理、検体や解析情報のデリバリーシステムなどに、力点を急速に移さなくてはならないのです。また、我が国の大学にあるといわれるバイオのシーズの中には大量の遺伝子配列特許もあるでしょうから、棚卸しも必要となるでしょう。

 世界は本当に猛烈な勢いで廻っているのです。今週もどうぞお元気で。

             日経バイオテクONLINE Webmaster 宮田 満

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