皆さん、お元気ですか。

 現在、青葉が美しい松山に滞在しております。第86回日本産業衛生学会を取材中です。今回初めて、遺伝子解析と労働衛生をテーマとしたシンポジウムが開催されるためです。いよいよ遺伝子検査が労働者や職場の適正配置に使われるリスクとベネフィットをまだ学会レベルとはいえ日本でも議論される時代となったのです。米国のように遺伝情報を職業選択と健康保険に利用することを禁止する法律(GENI法)のような法的・社会的基盤を欠く我が国で、こうしたことを社会が幸福となる形で実現することは困難です。まずは遺伝情報の乱用や遺伝情報やDNAの窃盗を刑事罰で取り締まる法律を我が国にでもまず成立させることが重要です。今回のシンポについては、追ってまた皆さんにお伝えいたします。

 さて、個の医療です。

 トゥームレイダーの演技で私を魅了してしまった女優Angelina Jolieが全乳房切除術を今年2月に行ったことをニューヨークタイムズのブログで告白しました。彼女の強い決断は、母親が乳がんで56歳で死亡した家族歴とBRCA1の遺伝子変異によって、生涯の乳がんリスクが85%と診断されたゲノム診断によって促されました。ブログで乳がんが近親で発症した家族歴のある患者に対して、Angieは遺伝子検査を勇気を持って受け、その結果に対応すべきだと訴えています。今回の予防的な処置によって彼女の生涯乳がんリスクは5%以下になりました。卵巣癌の生涯リスクも彼女が持つBRCA1の変異は50%あります。Angieはまず乳がんから対処したと表明、今後、卵巣癌のリスクにも積極的に対応することを示唆しています。浸透度の高い病因遺伝子変異に基づく、予防的処置がAngieの強い意志によって今や世界中で社会問題として議論されるようになったのです。彼女の勇気とその告白を正しく受け止める欧米社会には敬意を払わなくてはなりません。

http://www.nytimes.com/2013/05/14/opinion/my-medical-choice.html

 BRCA1と2の変異によって生じる家族性乳がんの問題は欧米だけの問題ではありません。2007年に我が国の研究グループによって発表されたデータでは、日米欧に家族性乳がんの患者が持つBRCA1と2の頻度に差はありませんでした。我が国でも乳がん患者の26%にBRCA1もしくはBRCA2の変異が報告されています。民族差なしに、我が国の女性の問題でもあるのです。

https://bio.nikkeibp.co.jp/article/oc/2004/4930/

 但し、もしAngieが我が国の国民だったら、新聞で全乳房切除術を行ったことを告白できるか?というと、多分そうではない現実が我が国には存在するのです。日本産業衛生学会のシンポジウムで東京大学医科学研究所の武藤香織教授は「Angieは日本では告白できない」と断言していました。社会や医師の間でのBRCA変異に対する認知不足や親族が差別扱いされるなどもありますが、最大の根拠は「遺伝子検査の結果に基づいて雇用や生命保険などの契約で差別することを禁じる法律(遺伝子情報差別禁止法:GINA)が我が国には存在しない」(武藤教授)ことだと言うのです。Angileの子ども達や親戚が米国ではBRCA1変異を持つ可能性があるからといって差別すれば、刑事罰の対象となるのに対して、日本では社会的認知もなく、差別は野放しになっているから、とても告白などはできないというのです。

 Angieは「私の経験を公表することによって、私と同じリスクで悩んでいる女性を支援したかった」とブログで語っています。こうした経験の共有や知識の共有を遺伝子情報に関して安心して行うことができる法的な基盤を我が国は欠いているのです。これはまったくもって厚生労働省の怠慢としか言いようがないのです。今や今回の学会のように、産業衛生(悪用すると雇用差別、善用すると労働者保護)に遺伝子情報が利用できる寸前のところまで来ている現状をもっとリアルに認識しなくてはなりません。労働安全などは政治家の責務でもありますので、もっと勉強して早急に議員立法で構いませんから、遺伝子差別禁止法を我が国でも制定しなくてはならないでしょう。

 現在、問題となっているOTC遺伝子検査や全ゲノム情報解の取り扱いなど、全ての問題はこうした法律を欠いているために、生じていると考えています。我が国の先端医療のインフラとして臨床試験・臨床研究被験者保護法と遺伝情報差別禁止法の制定は喫緊の課題であると確信しています。

 個の医療の普及に関しても、遺伝情報によって医療を受け、リスクを克服した経験の共有は重要です。我が国でも早く、Angieのような告白ができる環境を整備しなくてはなりません。米国でGINAによって健康保険契約の差別禁止が施行されたのが09年12月、雇用差別禁止が施行されたのが11年1月です。米国でも2年前にはAngieの告発は難しかったのです。GINAの制定は大変な議論となりました。最初に米国議会に提出されたのは1995年、大統領が署名して発行したのが2008年です。実に13年の議論が必要でした。我が国ではもはやウェブ上でOTC遺伝子検査がどんどん広告されています。また厚労省の地下のコンビニでもGeneLifeというOTC遺伝子検査キットが販売されています(武藤教授)。こうした状況を踏まえて、皆さん我が国でも遺伝子情報差別禁止法を是非とも早急に検討しなくてはならないと考えます。一刻を争います。具体的なトラブルを待つ、傍観はもう許されません。

 今週も、どうぞお元気に。

             日経バイオテクONLINE Webmaster 宮田 満

ご連絡は、https://bio.nikkeibp.co.jp/inquiry/