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バイオインフォマティクス・システムバイオロジー・合成バイオロジーの
世界の潮流(第44回) -細胞のシステムバイオロジー、Virtual Cell -
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2012年8月20日
八尾 徹 yao@riken.jp
理化学研究所(兼) 産総研, 慶應義塾大

「理研サイネス八尾レポート」

皆様 残暑お見舞い申し上げます。
前回(2012年5月) には、下記2項目についてご紹介ましたが,
a.システムバイオロジー: ドイツの動き
b.超チャレンジング研究システムとコンテスト
今回は、「細胞のシステムバイオロジー」を中心とした話題を提供いたしましょう。
    
1.最近、“Cell” 誌に細胞システムバイオロジーの論文・総説が非常に多く載るようになってきました。このことは、分子システムバイオロジーの過去10年ほどの大きな進歩が背景にあると思われます。ゲノム解析・オミックス解析・分子イメージングなどの分子レベルの先端計測技術とコンピュータモデリングの発達によって細胞内基本システムの理解が非常に進んできたことが引き金でしょう。

昨年 “Cell”誌は、システムバイオロジーの特集号を出し (March 18, 2011)、その主論文 C.Macilwain; “Systems Biology: Evolving into the Mainstream.” に続く16論文の中に次の2つのエッセイを載せています。
P.Nurse and J.Hayles; “The Cell in an Era of Systems Biology”
C.Smolke and P.Silver; “Informing Biological Design by Integration of
Systems and Synthetic Biology”
   前者は、細胞研究にシステムバイオロジーが大きく貢献して行くだろうことを述べており、後者は更にシステムバイオロジーと合成バイオロジーを併用することによって、細胞の理解と応用が加速されるだろうと述べています。

このような特集記事は今後の細胞研究に対して大きなインパクトを与えて行くでしょう。研究者だけでなく、研究施策や企業の行動にまで影響を及ぼすと考えられるからです。

2. ついに単細胞の丸ごとコンピュータコンピュータモデルが開発されました。
 J. Karr, M. Covert et al; “A Whole-Cell Computational Model predicts Phenotype From Genotype.” Cell 150, 389-401, July 20, 2012 スタンフォード大 Markus Covert のグループが、ヒト病原菌Mycoplasma Genitalium  の「細胞丸ごとコンピュータモデル」を作り上げこれを使って表現型の予測が出来るようになったと発表しました。この細菌群は、ゲノムサイズが小さく (55~140万bp)、遺伝子数も少なく(400~600個)、以前からミニマムゲノムプロジェクトの対象になってきていましたが (C.Venter et al; PNAS 2006) 、今回その理論モデルが作り上げられたことは画期的なことです。

525遺伝子を持つM. genitalium の細胞内分子プロセスを16種変数、28サブモデル(DNA複製・転写制御・修復、RNA処理・修飾・翻訳、タンパク質処理・修飾・フォールディング、染色体形成・分解、代謝パスウエイ等) に分けて、それぞれに適切なモデル型を作り上げ、それらを全体としてまとめるという手法を取っています。そのモデル作成には900文献と1900の測定パラメータが使われ、更に独自の実験でモデルの検証をしています。単細胞だけでなく細胞集団としての検証もしています。細胞周期の変化による細胞行動の変化にも注目しています。そして最後にこのモデルを使って、遺伝子ノックアウトによる各種表現型の変化の予測結果を示し、実験で検証しています。その中には実験に合わない結果がいくつかあり、それが新しい発見につながった例(lpdA geneの役割)も示されています。

M. Covert 達は、これは最初の「ドラフトモデル」(ヒトゲノムドラフト配列を模して)に過ぎないと言っています。また最小サイズの細胞であることにも言及しています。たしかに細胞壁もない寄生細菌のモデルに過ぎないかも知れませんが、ついにこのレベルまで到達したことは絶賛すべきことではないでしょうか。

3.転写制御因子(TF) ネットワーク の解析と応用
細胞の発生・分化過程と、細胞内分子ネットワーク 特に転写制御因子ネットワークとの関係の解析が活発化してきています。

理研OSC(林崎領域長)では、すでに2009 年4月に単芽球から単球(マクロファージ)への細胞移行における転写因子ネットワークの変化を追うことに成功し(Nature Genetics , Apr. 2009)、更に2010年3月に、ヒトとマウスについて転写因子(約1200種)間相互作用の網羅的マッップを公表し、その解析から細胞のタイプを決めるのは、15個の転写因子からなる相互作用 サブネットワークであることを突き止めています(Cell March 2010)。図参照。 非常に重要な発見でした。これらの研究を背景に、2012年2月には, ヒト繊維芽細胞に転写制御因子ネットワーク(TRN)を挿入する方法でiPS細胞を経由せずに、特定の機能を持つ細胞を創ることに成功しました(PLoS One, Mar. .2012) 。

これら以外に、幹細胞やiPS細胞のシステムバイオロジー(細胞状態遷移のメカニズ
ム解明とモデル化)が非常に活発に進んでおります。
 H.Xu, I.Lemischka et al; “Toward a Complete in silico, multi-layered embryonic Stem Cell Regulatory Network. www.wiley.com/wires/sysbio, 2010
I.Chambers and S.Tomlinson; “The Transcriptional Foundation of Pluripotency.”
Development 136,2311-2322 (2009)

4.これらの進展を背景に、合成バイオロジーに関し、次の二つの注目すべき動きが今月に報告されました。
A.Khall, J.Collins, et al; “A Synthetic Biology Framework for Programming Eukaryotic Transcription Functions” Cell Aug.3, 2012 The PLoS One Synthetic Biology Collection for 6 years PLos One Aug 15, 2012前者は、合成バイオロジーの基盤となる真核生物の転写因子群のライブラリーを作り上げた報告です。これは一方では真核生物の転写因子の働きを理解する基礎研究のためであり、他方ではそれらを利用して有用な働きを持つ生物機能を創るという応用研究のためでもあります。代表的なDNA結合モティーフであるZinc Fingerの組み合わせを中心として特異性と共通性を持つプロモーター領域を作り上げています。この人工転写因子群(sTFs) の組み合わせによって各種の基礎実験と応用開発ができるようにその基盤を提供したことは大きな貢献と言えるでしょう。

後者は、PLoS One が過去6年間に掲載した合成バイオロジーの論文52件のリストです。従来の専門分野を超えてまたがった(Interdisciplinary)分野である合成バイオロジーの発表の場としてPLoS Oneはふさわしいと自賛していますが、たしかに合成バイオロジーはタンパク質分子レベルから細胞レベル、更には微生物集団レベルなど多岐に亘ります。このリストの冒頭2007年には、嬉しいことに阪大四方さん達の論文が載っており、2012年3月には、上記の理研OSCの成果が載りましたが、その間には、A.Arkin,J.Keasling, L.Serrano, D.Endy, M.Hecht, R.Weiss など合成バイオロジーの主要なメンバーが論文を発表しております。ちょっと気になることはこれらに交じって中国人研究者の論文が多いことです。合成バイオロジーは応用を目指す段階では、必ず社会的アセスメントを必要としますが、その点で国家間の意識や規制の差が出てくるでしょう。将来展開についてよく考えなければなりません。

以上、いろいろと最近の進展を書きましたが、最後に去る7月6日に行なわれた理研GSC七夕ミーティングの報告を添付いたします。

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理研GSC七夕ミーティング報告     2012. 7. 7 八尾 徹

日時:2012年7月6日 10:30-18:30 場所: 理研横浜研究所研究交流棟
参加者:和田特別顧問(GSComplex組織長)、林崎領域長、横山領域長、木川・鈴木・石川・権藤氏ほか
藤田所長、加藤副所長 渡辺部長、柴田課長、田野課代、下田・山田氏ほか
招待講演者:高橋政代、武藤太郎、山田彩子氏 
七夕フェロー:上村想太郎・山田拓司・飯田慶・西方公朗氏ほか
発表者:1,入江直樹(理研CDB)、2,松村茂祥(ストラスブール大)、
3,J.Shin(理研OSC)、 4,角南武志(JST大阪大)、
5,黒田垂歩(HMSボストン)、 6,鈴木洋一(UCサンジェゴ)、
7,樋口清香(理研QBiC)、  8,川口修治(理研BASE)、
9,荒井慧悟(MIT)、 10,松野裕樹(産総研つくば)、
11,T.Wang(シンガポールIHPC)、12,町山裕亮(シンガポールNUS)、
13,永田勇樹(MPIマインツ)、 14,上野恵介(北海道大)、
15,山崎美紗子(ローザンヌ大)、16,井手聖(モンペリエ遺伝学研)、
17,渡邊博(ハイデルベルグ大)、18,蓑田亜希子(LBNLバークレイ)、
19,竹本和広(JST九工大)、  20,J.Wang(CAS北京) 各氏

一般参加者:約80名 小谷正博・福永・安平・前田・小山・桐栄・神吉・河田孝雄・松本・今西・和田・宮本・芳賀・佐久間・三木・平野・中山・米川・新井氏ほか

内容: プログラム-HP参照 「理研七夕2012」
 司会 木川氏:和田先生挨拶、武藤・山田氏講演-質疑応答   昼食
 司会 鈴木氏:2分間スピーチ(20名) 記念写真、 ポスター(120分)
 招待講演 高橋政代氏、閉会挨拶 林崎良英氏
 交流会: 挨拶 横山氏--懇親---閉会 加藤副所長   
特記事項
 ・20名の発表者がバラエティに富み、世界中万遍なく多くの地域 (San Diego, Berkeley, Boston, Cambridge, London, Paris, Montpellie, Lausanne, Strasbourg, Mainz, Heidelberg, Singapore, Beijing, Sapporo, Tsukuba, Tokyo, Yokohama, Osaka, Kobe, Fukuoka ) から集まり、また、その専門分野は多岐(進化・発生・細胞・医学・薬学・植物・物理・化学・工学・情報)に亘っていました。
 ・当然ながら、ほとんどすべてがチャレンジングな研究であり、未発表の成果を示したものが多くありました。(進化発生理論、細胞分化制御法、細胞内測定法、ゲノム解析法、発現解析法、クロマチン形成、形態形成、代謝システムの適応、合成生物学、ガン治療法、感染応答解析ほか-- 詳細別途)
 ・若手発表者の短い紹介プレゼンのあと、十分な時間を取ったポスターセッションと交流会の中で、若手同士、若手とシニアの間の議論が続きました。多くの若手の自信にあふれた発表態度に頼もしさを感じました。

 ・和田先生は開会挨拶の中で、「雑文章」を引用して紹介され、「技術から学理」の流れの重要性と、研究における「知力・判断力・勇気」の三者協調の必要性を述べられました。配布されたコピー日経夕刊「あすへの話題」25篇(2012.1-6月)の内容は、若手・シニアすべての人に参考になるでしょう。
 ・林崎先生は閉会挨拶の中で、「サイエンスの牽引力」に関し、科学者は何をしたいのか? 科学者は何が問われているか? を自省することの大切さを強調されました。   ・招待講演の高橋政代先生は、iPS細胞から網膜細胞生成の実用化研究の内容とその過程での工夫と苦労についてお話しされ、若手研究者へ多くの示唆を与えたと思われます。

 ・第3回を迎えたこの七夕ミーティングはますます若手登竜門的な性格を濃くしてきたと感じられました。これまでの参加者の中には、すでに外国から戻って理研・京大・東工大他に職を得られた方がいます。またこの会への参加を契機に日本各所での講演依頼を受けておられる方が増えています。 ・このような催しを更に拡大していくことの重要性を痛感しました。世界的に活躍している若手研究者を発掘・激励するばかりでなく、今後日本から世界に進出し活躍する若手を多くしていくことにつながると思います。

以上

暑さが続きます。皆様くれぐれもご自愛の上、お元気でお過ごし下さい。

                    2012. 8. 20 八尾 徹 yao@riken.jp

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 さすがに無理筋だった病気腎移植の先進医療申請
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 こんにちは。第2、第4金曜日を担当する日経バイオテク副編集長の河野修己です。

 昨日は、厚生労働省で開催された先進医療専門家会議を傍聴しました。昨日の会合は、社会的にも大きな問題となった病気腎移植が審議されたため、冒頭の頭撮りでは多くのテレビカメラが入るなどいつもと違った雰囲気でした。

先進医療専門家会議、病気腎移植を議論し承認せず、「現状ではあまりにも問題が多い」
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20120823/162875/

 結果はおおかたの予想通り却下でした。私も、公表されているデータだけではさすがに先進医療として認めるのは無理ではないかという印象も持ちました。先進医療は、保険収載一歩手前の制度です。先進医療として認められれば、施設基準を満たす医療機関は届け出だけでその医療技術を提供できるようになります。それだけに、有効性と安全性を担保するためには、十分なエビデンスが必要でしょう。

 病気腎移植では、がんを発症した腎臓を摘出し、腫瘍を取り除いてから移植します。審議では、ドナーのデメリットにならないか、説明と同意の仕組みは適切か、移植を受ける患者の選定方法は公平化など様々な疑問が提出されました。こうした疑問に答えるとともに、制度や仕組みを整えるのはそれほど難しいことではなさそうです。

 結局のところ、病気腎移植を先進医療と認めさせるには、移植を受けた患者でがんの発症リスクが上昇するかどうか、上昇するとしたらそのリスクは移植により得られるメリットより小さいのかという点を検証することが必須と思えます。申請にはオーストラリアや日本での臨床研究のデータが添付されていますが、術後の長期追跡が不十分であるという印象は否めません。

 脳死移植がなかなか増加しない日本で、病気腎移植が透析患者にとって福音となる可能性があることは、会議の構成員も認めています。臨床研究で症例数を積むことが、この技術を普及させる早道に見えます。