現在、和歌山市に滞在しております。昨夜、和歌山県立医科大学でがんペプチドワクチンの取材を行った後、関西一の炭酸泉という鄙びた温泉宿に泊まっておりました。くたくたになった身体が今朝はしゃきっとしております。昨夜は昭和の雰囲気のある宿で、コンセンサスエンジン乳がんの会議を開催しました。慶応義塾大学の佐谷教授はノルウェイのOsloからインターネットを介して議論に参加、がん幹細胞に焦点を当てた臨床研究が近いことを知らせていただきました。全国から10人以上のがんの専門医が参加、全員が臨床経験からがん幹細胞、すくなくともがん病巣には多様ながん細胞が存在していることを認識しておりました。Osloの国際会議で80歳の医学研究者から「がん幹細胞などある訳がない」と一喝されていた佐谷教授が元気を取り戻したことは言うまでもありません。しかし、鄙びた温泉とOslo、東京、新潟、京都、福岡、神戸、仙台、大阪がインターネットで結ばれ、コンセンサスを形成できるとは、つくづく地球は小さくなりました。
https://bioce.nikkeibp.co.jp/breastcancer/

 さて個の医療です。

 個の医療といっても、患者さんの遺伝的背景だけでなく、生活習慣など環境要因の解析と合わせて、本当に意味のある医療を患者ごとに提供できることは言うまでもありません。今回はまだ、環境要因と遺伝要因を突合させえた訳ではありませんが、環境が人間のバイオマーカーを大きく作用することを示した論文が、JAMA2012年5月16日号に掲載されたので、ご紹介したいと思います。衝撃を受ける論文です。私たちの生存は環境に左右されることを実感します。

 中国は深刻な大気汚染に悩まされています。中国政府は北京オリンピックの時に国際的な非難をかわすため、北京周辺の交通規制や工場規制を行い、オリンピック開催期間だけ北京に青空を取り戻しました。共産党政権ならではの壮大な環境改造を行ったのです。実際、その結果、大気中の粒子や汚染物質の量はオリンピック期間中に13%-61%削減されました。たとえば、亜硫酸ガスは61%減少、一酸化炭素も48%、一酸化窒素も41%それぞれ減少しました。逆にいえば北京の大気汚染は本当に深刻だということです。北京オリンピック終幕後北京市政府が規制を解除したところ、開催前とほぼ同じ汚染状況に戻ってしまいました。但し、オゾン濃度だけは青空が戻ってきたため、オリンピック開催期間中は24%増加、終幕後には61%減少しています。

 米Rochester大学のDavid Q. Rich氏らは大気汚染の大規模な変化に目を付け、大気汚染と循環器疾患の関係を明らかにすべく、健康な成人125人のボランティアの血中のバイオマーカーを、オリンピック開催前、開催中、開催後に計測したのです。誠に目の付けどころが鋭い。その成果をJAMAに発表したのです。論文のタイトルは「Air pollution level changes in Beijing linked with biomarkers of cardiovascular disease」。

 遠目も霞むほどの深刻な大気汚染だからかも知れませんが、オリンピックの前後と開催期間中で統計的な有意さを示したバイオマーカーが2つ検出されました。sCD62P(接着因子Pセレクチン)とフォンビルレント因子が、オリンピック解散期間中、-34%、-13.1%とそれぞれ改善したのです。両因子とも、血管内皮細胞の機能低下や血栓症のバイオマーカーであります。大気汚染が改善するとともに、循環器疾患の重要なリスクも低下することが明らかとなったのです。こんなにも激しく大気汚染の変化が体内のバイオマーカーに短期的にも、反映されるとはびっくりしました。つくづく清浄な環境が少なくとも呼吸器や循環器疾患の抑止のためには必要であるということをみごとに示しました。炎症のバイオマーカーであるCRP、フィブリノーゲン、白血球数と血小板活性化のマーカーである可溶性CD40は、大気汚染の改善によって統計学的に有意な変動を示しませんでした。

 オリンピック終幕後の大気汚染の悪化で、sCD62Pと収縮期血圧はオリンピック期間中に比較して悪化することも判明しました。あくまでもバイオマーカーの変化なので、大気汚染が循環器疾患を悪化するという直接的な証拠にはなりませんが、今後、大気汚染による循環器疾患発生のメカニズムを探る研究を行う動機を与える成果となりました。

 環境によって、私たちの身体は大きく変動します。環境の変化に対応する変動のし易さを個人の遺伝的、エピジェネティックス的背景が決めているのです。個の医療の実現のためには、患者のライフスタイルや環境要因による変化を反映するバイオマーカーの研究を進めることがどうしても必要なのです。

 北京オリンピックにも意外な効用があったのです。

 今週もどうぞ、お元気で。

            日経バイオテクONLINE Webmaster 宮田 満

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