今月も日経バイオテクONLINEの Webmasterの宮田が執筆させていただきます。著者の選定に今尚難渋しております。

 欧州のサッカーシーズンも終了しました。英国プレミア・リーグはロスタイムで2点得点し、逆転勝利、優勝決定という壮絶な戦いでマンチェスター・シティが最終戦を飾りました。まさに劇的、これではインターネットやTVの多チャンネル化の進行によって起こったメディア革命でも、プロサッカーの価値が増大するのも無理はありません。ローマ帝国のパンとサーカスのサーカスの地位を、現代ではサッカーが代替したかのごときです。

 さてプロテオミックスです。

 何事にも終わりがあります。

 ヒトプロテオーム研究もとうとう最終段階に入りました。ヒトの全たんぱく質約2万5000の絶対定量に目途が立ったのです。九州大学生体防御医学研究所細胞機能制御部門分子医科学分野の中山敬一教授が、ロボティックスと無細胞たんぱく質発現システム、ヒト全鎖長cDNAライブラリー、そしてトリプシン分解ペプチドによる質量分析解析の3つの技術を組み合わせて、ヒトの全たんぱく質の絶対定量を可能としました。既に、代謝系に関与する1000万種のヒトたんぱく質の絶対定量解析に成功しました。基盤となった4つの技術はいずれも日本が営々と開発してきた日の丸技術であり、この4つを組み合わせて、ヒト・プロテオーム解析に足るだけスケールアップしたことが中山教授の独創性です。

 たんぱく質の絶対定量解析は、東北大学のグループが世界に先駆けて開発、この3月に複数のたんぱく質を定量するキットとして実用化しています。
http://www.jst.go.jp/pr/info/info865/index.html#YOUGO8

 ヒト全プロテオームを定量解析するには、まず2万5000のヒトたんぱく質の標準品の作製が必要でした。ヒト全鎖長cDNA(産業技術総合研究所)と無細胞たんぱく質合成系(愛媛大学)の結合でこの関門を突破しました。わが国以外でこのような研究を遂行することはできなかったと言えるでしょう。ヒトゲノム計画のブームに完全と立ち向かい、ヒトcDNAプロジェクトを遂行したわが国の研究者、企業関係者、そして政府関係者には敬意を表しなくてはなりません。また、孤独な戦いを一人で完遂した愛媛大学の遠藤名誉教授にも頭が下がります。米国のバイオ研究のブームに一喜一憂し、後追いばかりで独創性を欠く研究者は猛省しなくてはなりません。全員とは申しませんが、日本人にはアングロサクソンにはない独創性があります。問題は舶来主義の固陋な価値観、劣等感ともいっても良い、に固まった私たちが、わが国の独創性を認め、その価値を世界にアッピールすることが上手ではないことなのです。ヒト・プロテオームの絶対定量解析は、日本の独創性の粋が結晶化したプロジェクトです。「私は技術を組み合わせただけ」と中山教授は謙遜しますが、東北大学のたんぱく質絶対定量技術を見て、これをヒト全プロテオーム解析に結びつけ、粘り強く、ロボティックスと無細胞たんぱく質合成系、ヒト全鎖長cDNAライブラリーをすり合わせた努力と洞察力は称賛に値します。青い鳥は別の大陸ではなく、いつも皆さんの足元に居るのですね。

 問題は、わが国の政府がプロテオームの大型プロジェクトに懲りて、研究資金の確保が容易ではない点です。かつてプロティンファクトリーなどの大型プロジェクトの失敗がプロテオームという言葉を忌避させているのです。しかし、米国政府が今年4月に発表したバイオ産業振興策、Bioeconomy Blueprintでも、プロテオームに再び焦点を当ててきました。米国はヒト全たんぱく質絶対定量技術を欠いているにもかかわらず、ゲノム、RNAの次にはどうしてもプロテオームの解析は不可欠であるという認識です。日本に誕生したヒト全プロテオーム絶対定量を今こそ生かすべき時だと思っております。トランスクリプトーム解析では分からなかった、生命現象の主役であるたんぱく質の絶対定量プロファイリングが可能となるのです。この成果は、バイオテクノロジーの21世紀の最終戦場であるシステム生物学に不可欠の基盤となるのです。ここで負けるわけにはいきません。医療、環境・エネルギーというわが国政府の2大イノベーション戦略のエンジンを今手に入れたのです。政府も、盛大にガソリンを注入して、アクセルを吹かさなくてはなりません。来年度の予算計上を多いに期待したいと思います。

 たんぱく質と低分子の絶対定量が可能になれば、生命現象を数式によって表現し、コンピュータ内で細胞内の生化学反応やシグナル伝達をシミュレーションすることが可能となります。ミカエリス・メンテンの式によって生化学反応は記述できますが、酵素・たんぱく質量と基質(低分子など)の定量ができなくては式が成り立ちません。慶応義塾大学が開発したメタボロームの解析技術と中山教授のヒト全プロテオーム絶対定量技術を組み合わせれば、細胞内の代謝系のシミュレーション技術は完成するはずです。代謝性疾患やがんの治療薬の開発から、バイオエネルギー生産まで幅広い設計技術となることは間違いありません。この技術が完成すれば、ある意味偶然や発見に頼っていたバイオ産業が、本当の意味でエンジニアリング産業となる突破口となるのです。金融力の弱いわが国が、この産業でリードするには産業の離陸期に投資するしかないのです。つまり、わが国がヒト全プロテオーム絶対定量技術とヒトのシステム生物学に投資するのは今であるということです。是非とも、この技術にご注目願います。

 ロボティックスのバイオにおける可能性は今週月曜日に配信したメールで論じました。下記のサイトから「WMの憂鬱」で検索願います。バックナンバーをご覧になれます。全文無料で読めますのでご安心を。
https://bio.nikkeibp.co.jp/

 では、ヒトプロテオームの絶対定量技術の登場で、プロテオーム研究は終わってしまうのか?心配なさる読者に朗報です。正常や疾患、環境要因、発生によって多様な細胞の状態が存在し、そのプロテオーム解析と生命現象を対照させる研究はこれから始まるのです。また、翻訳後修飾まで考えればヒトのたんぱく質は100万種以上のたんぱく質・ペプチドを解析対照としなくてはなりません。

 サッカーのシーズン同様、来季も新しいシーズンが始まります。

 第二世代のプロテオーム研究が今年から開花するのです。皆さん、やることは山ほど存在するのです。どうぞご安心願います。

 今月もお元気で。

        日経バイオテクONLINE Webmaster 宮田 満