東京は予報通り、豪雨になって参りました。取材中にお昼を迎えたため、電気が落ちて真っ暗になった文部科学省のライフサイエンス課での仕事を終了、外に出たところで、ざあっと来ました。連休の中日に精勤しているのに、この報いは無いと天を見上げたばかりです。日ごろの行いに問題があるのかも知れません。

 さて、個の医療です。

 連休はたまりにたまったファイルを整理するのにまたとないチャンスです。最近は机上ばかりでなく、パソコンにも多数のファイルが滞留し、いくらアイコンを小さくしても、デスクトップから溢れています。

 今回はたまたまデスクトップで発見したBruce Ponder卿のファイルに基づいて、皆さんに英国の個の医療の現状をお伝えいたしましょう。Ponder卿は英Cambridge大学教授でCancer Research UK Cambridge ResearchInstituteの所長でもあります。Ponder卿は英国で個の医療の戦略作成に深くかかわった人物です。

 まず、英国では個の医療とは言わず、Staratified Medicineと呼ぶのが英国らしい。患者をある種の遺伝マーカーやバイオマーカーによって層別化することから名をつけています。この言葉にこめられた哲学は、実際の医療では、特定の患者群に対する個別化が行われるというリアリズムがあります。個人ごとの処方では経済的に引き合わないという、英国製薬業界の主張が仄見えます。まあ確かに、現実的にはそうでしょうが、きっと米国ではICT技術を駆使して、新しい製薬企業のビジネスモデルを夢見る言葉として、Personalized MedicineをObama大統領は多用しています。夢か現実か?英国の渋く、堅実なアプローチがこの言葉からも滲みます。

 実際、英国政府のイノベーションを支援組織、Techynology Strategy Boardが、Staratified Medicineのビジョンとロードマップを2011年12月8日に発表していますが、これが練られるまでには、「英国の主要都市で説明会を多数開催、説明会の後にシェリーを飲みながら地元の関係者と意見を交換した」(Ponder卿)といった、着実な世論形成を行っています。遺伝子解析という英国でもまだ微妙な技術を市民やコミュニティに理解してもらうため、たっぷりと時間をかけてフォーマルとインフォーマルな意見交換を進めていく手法は誠にうらやましい。我が国の政府だと、頭が固い、しかも自分の研究をなんとしても推進したい、あるいは相手の研究をなんとしても阻止したい、という利益代表者がその立場でだけ意見を交し合う空しい委員会を繰り返し、結局は事務局の玉虫色の案に収まるという、時間と才能の空費が行われ、そのビジョンは報告書発行の時点で力尽き、現実の個の医療の実現にはほとんど貢献しない。あるいは立派な報告書が仮に出来たとしても、そのビジョンを全国の市民やコミュニティが知らされるだけで、納得するプロセスを欠くために、実効力を示せないという悲劇を繰りかえしています。まず、専門家を地域や病院に放ち市民や患者と対話することから、現実的なビジョンを作成する政策決定のプロセスを我が国でも深く学ぶ必要があります。
http://www.innovateuk.org/_assets/pdf/publications/roadmap_stratifiedmedintheuk%20_final.pdf

 英国の現実主義は、彼らが追及しているStratified Medicineにも色濃く現れています。「英国こそが、英国保険医療制度(NHS)の中でStratified Medicineを実施する最適の場所である」と上記の報告書で宣言、あくまでも現在の医療基盤であるNHSで個の医療を実践することを明言しています。確かに、個の医療を評価するためにNHSの全国民をカバーする電子カルテ情報は大いなる基盤となります。英国では患者の自由意志によって、患者が希望するならばStratified Medicineを実現するための研究に参加することができます。当然のことならが電子カルテ情報の提供も含まれています。さらに、報告書では、NHSはStratifiedMedicineをきっちっと保険償還すべきであるとも明記、しかも個の医療の技術革新を押し進めるためにインセンティブを与えよとも書いているのです。その上で、英国の医療サービス制度の中に、Stratified Medicineを活用するパスウェイを作り、それによって健康がどう改善されたか科学的なエビデンスを収集することも提言しています。我が国のように基礎研究と臨床応用が大海に隔てられている状況とは異なり、英国ではことここまで基礎研究が進展しStratified Medicineが社会に役に立つことが分かった段階で、今度はNHSそのものを変革しようと挑戦しているのです。科学の進歩から超絶主義を取る我が国の国民皆保険制度が世論の揺らぎに対応して小手先の手直しに終始したため、整合性を失いつつあるのとは対照的です。全国民にとって共通の脅威であった感染症を駆逐するための国民皆保険制度は平等均一が原則ですが、今後、各国民の罹患確率が異なることが明確になるとこうした制度は維持できなくなるのです。NHSが国民を層別化する医療モデルを取り入れることを決めた背景には、感染症から生活習慣病への疾患構造の大変化を現実的に見つめたことがあります。英国の現実主義の本領発揮と言えるのです。我が国もリアリズムに基づく、保険医療改革に踏み出さなくてはならないのですが、消費税の問題も解決不能な現状では、まったく身動きが取れません。

 英国のNHSは提言を受けて、UK Human Genomics Strategy Groupを2012年に設立しました。多分野の専門家を集め、NHSのゲノム戦略と遺伝学を医療サービス取り込む幅広い選択しを提示するのが役割です。実際の医療行為にどうやってStratified Medcineを導入するか、戦術面のアドバイスをするグループです。今年の勧告では、1)医療経済的分析に基づき、ゲノム解析技術をNHSで実施する戦略策定、2)遺伝学とゲノムデータとフェノタイプを合わせた中央データバンクの創設、3)明快なコストと保険償還のメカニズムの提示、4)総ての分子診断テストの詳細な有用性と品質のバリデーション、5)NHSが保持するデータを適切な秘匿の枠組みの中で、研究用途に利用するための合意形成、などを提言しています。いよいよ英国も当局が持つ、健康データや診療データの重要性に注目したようです。昨日配信した日経バイオテクONLINEメールでも指摘しましたが、Obama大統領が4月26日に発表したバイオ産業振興戦略「Bioeconomy Blueprint」でも米国食品医薬品局が蓄積している医薬品開発の前臨床と臨床データを第三者が解析することを促進する提案がありました。いよいよ新薬開発や医療イノベーションは医療制度や医療情報を巻き込む総力戦の様相を呈して参りました。

 世界に先駆けて国民皆保険を実現した我が国には大変有利な状況が巡ってきたとも言えるのですが、電子カルテの統一も不十分、レセプトデータも日本医師会の反対で安全性情報に限定して解析が許されている現状では、我が国は国民皆保険の有利さをまったく活用できません。診療報酬の調整だけでなく、国民や医療関係者に医療データは公的な財産であることを、厚労省は明言する勇気を持たなくてはなりません。変化を恐れると、我が国が世界に誇る国民皆保険制度そのものが砂上の楼閣と化すことを避けえない。冷たい汗が首筋を流れるのを感じませんか?

  皆さん、今週もお元気で。

             日経バイオテクONLINE Webmaster 宮田 満