こんにちは。第2、第4金曜日を担当する日経バイオテク副編集長の河野修己です。
 昨日は、IMSジャパン主催の記者会見に出席してきました。テーマは、今後の医薬品の売り上げ動向がグローバルレベルでどうなるかといったものだったのですが、プレゼンテーションには非常に興味深い内容が含まれていました。
 講師を務めた同社営業部のAlan Thomasディレクターは、今後、製薬企業の経営に大きな影響を与える可能性のある事項のうちの1つが、Pay for Performanceの導入が増加することと指摘しました。Pay for Performanceとはつまり、治療効果の良し悪しに応じて製薬企業が受け取れる金額が変化するという仕組みです。
 不勉強ながら、そんな仕組みはまだどこもやっていないと思っていたのですが、実は欧州では既に導入されていたのです。Thomas氏が実例として挙げたのは、まずは多発性骨髄腫治療薬の「ベルケード」(ボルテゾミブ)。英国では、ベルケードによる治療効果が十分に得られないと一定額を払い戻さなければなりません。
 また、フランスでは、抗がん剤「スーテント」(スニチニブ)を使用する際に、初期投与の薬価は低く設定されていますが、治療効果が得られると製薬企業に一定のプレミアムが支払われる仕組みになっています。
 Pay for Performanceが適用される製品が増えれば、とにかく処方数を増やすというマーケティング方針を製薬企業は根本から見直さなければなりません。高い精度で治療効果を予測するためにバイオマーカーが見つかるかどうかが、その製品の商業的な成功を左右することになるでしょう。
 ThomasディレクターはPay for Performanceについて、薬価が高い傾向があるイノベーティブな製品に患者がアクセスできる機会を増加させる効果があるが、製薬企業にとっては危険なゾーンに足を踏み入れることになると指摘しました。厚生労働省の薬価制度に関係する検討会などでPay for Performanceが議論されたとはまだ耳にしていませんが、日本でも議題に挙がってくるのは時間の問題ではないでしょうか。
 
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バイオインフォマティクス・システムバイオロジーの世界の潮流(第41回)
          -最近のトピックス-
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2011年7月1日
理化学研究所 (兼) 産総研
          東京医科歯科大、慶應義塾大
           八尾 徹 yao@riken.jp
「理研サイネス八尾レポート」
皆様 いかがお過ごしですか?
前回このコーナーで書いて半年が経ちましたが、この間たいへんなことが起こってしまいました。3月11日の東日本の大地震・大津波そして原発事故と想像を絶する被害を受けています。このために亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。また被災された方々、復旧・復興に日夜当たっておられる方々に、お見舞いを申し上げます。
 このような中にありましても、世界は大きくまた急速に動いております。以下にいくつかのトピックスを取上げます。
1)クラウドコンピューティング、SNSのインパクト
2)オープンサイエンスの動向
3)グランドチャレンジな課題
  その前にいくつか日本の明るいニュースを述べます。
1)本年4月に理化学研究所と大阪大学が共同の「生命システム研究センター」が発足しました。先端生命計測・コンピュータモデリング・合成バイオロジーまでを含む正に本格的なシステムバイオロジーの研究拠点で、神戸と大阪の2キャンパスで研究が始まります。大阪側の研究は、元蛋白工学研究所(PERI)の研究棟に集中することになっており、現在逐次整備・移動が始まっています。
実はこの研究棟は25年前(1986年)に当時の一大ナショプロ「蛋白工学研究所」のために建築されたもので、その設計段階から関わり実際の研究に携わった者として、私個人にとっても非常に感慨深いものがあります。今回の新しい研究センターがここから世界的な成果を次々と出して頂きたいと大いに期待しております。
2)本年6月、理化学研究所と富士通社によるスーパーコンピュータが世界一になったとのニュースが流れました。私自身1986年に三菱化学横浜総合研究所に富士通社製スパコンVP-50を化学会社として初めて導入し、その後蛋白工学研究所やアトムテクノロジー研究プロジェクトへのスパコン導入に関わってきましたが、今回のCPU能力には圧倒される思いです。隔世の感があります。
 具体的な応用で世界に誇る成果を挙げてほしいものです。  
3)上記の大きなニュースとは比べものになりませんが、本年3月 PubMedCentralの編集者から、私の2002年の総説論文がこの8年間のこの分野のトップ引用文献と認定されたと知らせてきました。
Toru YAO; Review: Bioinformatics for the Genomic Sciences and towards
Systems Biology. Japanese Activities in the Post-Genome Era.
Progress in Biophysics and Molecular Biology 80, 23-42 (2002) -Elsevier
  このような10年近くも前の論文が評価されたことに私自身驚きましたが、日本の状況が世界の多くの関係者に注目されたことは嬉しいことと素直に喜んでおります。この論文は多くの日本人研究者の成果に支えられたものであることに感謝しております。私はその後も日本の成果を世界に発信し続けています。
   Systems Biology in Japan (2005)
Systems Biology and Synthetic Biology in Japan (2008)
「理研サイネス八尾レポート」をご覧ください。
以上3件とも、私に身近なニュースばかりで、たいへん失礼いたしました。
さて、最近の国際的な動向を3件ご紹介いたします。
1.クラウドコンピューティング、SNSのインパクト
これまでにもクラウドコンピューティングのライフサイエンス関連の動きをご紹介して参りましたが、ここ1~2年の動きは、非常に急速であります。その背景には、次世代シーケンサーをはじめとするバイオデータの急増があります。
昨年10月の独ハノーバにおける、そして今年3月の米ボストンにおけるBio-IT World Conference では、まさにクラウドコンピューティング花盛りでした。ライフサイエンスにおけるコンピュータハードウエアの共用ばかりでなく、データベースやソフトウエアの共用が急速に進むでしょう。ライフサイエンス分野専門のサービス会社も多く出てきております。
もう一つ、ソーシャルネットワークサービスSNSの急速な広がりに注目しなければなりません。このサービスを使えば、友達の友達、そしてその友達ということで、信頼おける仲間を非常に速いスピードで形成していくことができます。この人的ネットワークをうまく使って多様な専門家を動員した異分野融合の共同研究体制を作り上げられる可能性が高まってきました。このことは今後の国際共同研究のあり方に大きな影響を及ぼすことは必至でしょう。
理化学研究所の生命情報基盤研究部門の豊田部門長が2009年に提唱し開発運用を始めている「理研サイネスSciNetS」はその一つとして注目すべきものです。これは、最近の世界標準システムである Semantic Web に準拠し、クラウドシステムによって各種データベースの連携・統合のみでなく、研究者ネットワークの形成と共同研究の成立を支援するシステムです。すでにいくつかの事例が始まっています。百数十に上る仮想ラボができています。今後の大きな発展を期待したいものです。
2.オープンサイエンスの動向
科学の世界は、大きくオープンサイエンスの方向に動いております。科学的なデータ・情報・ソフトウエア・研究成果(論文)などを、早い段階から多くの人が共有して研究を加速するのみならず、更に上位の研究へと発展させるのです。
この動きは、以前からコンピュータプログラム開発の世界でオープンソースとして行われてきましたが、それ以外にも、下記のような様々な分野で顕著になってきております。
1.ゲノム解読分野  ヒトゲノム、アノテーション、メタゲノム
2.医薬開発分野   基礎研究段階、SAGE Networks
3.科学論文出版分野 オープンフリージャーナル PLoS, BMCほか
4.科学研究      ISCB (Computational Biology)
これらについて詳しくは、「生命をはかる」研究会国際動向レポート第7回(2011年5月)をご参照ください。
以上のような動きに共通していることは、科学の発展には情報の公開・共有が重要であるという認識であります。最近のグローバルな多くの重要な課題に応えるには、世界中の「知」と「技術」を結集する必要があります。オープンサイエンスの重要性が叫ばれる所以です。
更に、このオープンサイエンスの動きをサポートする有力な手段が、上述の通り、最近急速な展開を見せているインターネット技術です。
このオープンサイエンスについて、日本の動きの一つをご紹介しましょう。ソニーコンピュータシステム研究所CSLが2008年に、「オープンシステムサイエンス」の理念で次の10年を展開すると発表しました。 これまでの「分析的」アプローチと最近の「合成的」アプローチに加えて、「運営的」アプローチの3本柱で今後のグローバルな課題に挑戦するとしております。所前所長・北野現所長ほかのメンバーが、この理念を説明する本を出版しております。
環境・エネルギー等のグローバルな課題に対して、世界的な知や技術を動員して当たっていくために、オープンサイエンスの精神は必須のものでしょう。
3.グランドチャレンジ課題、科学における未解決問題
「科学における未解決問題」については、これまでに度々いろいろなところで発表・議論・まとめがなされてきております。数学・物理学・化学などでは、未解決問題リストが多数載っています。これに対し、生物学の分野では、生命起源、生物進化、DNA・ゲノム、細胞、寿命、睡眠、意識、知能といった広い対象が挙げられ、具体的な課題になっていないものが多いように見えます。それだけ未知の領域が多すぎ、研究のフロンティアが広いとも言えましょう。これらの基礎研究が今後とも必要であることは言うまでもありませんが、最近は世界的に下記のような傾向が強くなってきています。
環境問題、エネルギー問題、食糧問題、健康・医療問題などの社会的・人類的課題に対する研究グラントは、グランドチャレンジ課題として募集されることが多くなっています。これらの課題には多くの異分野の専門家の参画が必要であり、従来の学問分野別の募集では解決されません。
米国NIHでは、2009-2010年にオバマ緊急予算の中で、健康・科学分野でのチャレンジング研究を募集しました。広い範囲のチャレンジング課題と、特定のチャレンジングテーマとに分けています。上記のようなことに配慮した表現です。大小200件位の課題に対し、全体で200億円の予算が割り当てられました、
一方NSFでは 2007年から本格化している CyberInfrastructure の利用によるチャレンジング研究を奨励・促進しています。物理学・天文学などに加えて、植物研究分野でも、この手段によるチャレンジング研究を促進するために “iPlant” の合い言葉で募集をしています。 “CyberInfrastructure Vision for 21st Century Discovery”またDOEでは、エネルギー科学におけるグランドチャレンジング問題を2008年にまとめています。 5つのトピックスが挙げられています。
“Grand Challenges in Basic Energy Sciences.”
Physics Today, July 2008 p.28-33
その前 (2006年)に、AAAS で 科学・技術・社会全般に関するグランドチャレンジ問題が議論されています。
 G.Omenn “Grand Challenges and Great Opportunities in Science, Technology
and Public Policy.”   Science 314, 1696-1704, Dec.15, 2006
工学の分野でもグランドチャレンジ問題が討議されています。NAS (National Academy of Engineering) が第2回サミット会議を開き14分野を取上げました。
さらにそれに関連して、技術と社会、人材育成など5つの会が2010年中に行われました。
また最近の大きな動きとして、地球環境のサステイナビリティが話題になっています。 W. Reid et al; “Earth System Science for Global Sustainability: Grand Challenges.” Science 330, 916-917, Nov. 12, 2010
さらに本年4月(2011/4/28)、WASH (Washington Area Secular Humanists) グループがあらためて、エネルギー・開発・保健問題に関するグランドチャレンジ問題に対し、SH賞を出すと発表しました。
2005年から始まっている ゲイツ財団による Grand Challenges in Global Healthでは、これまでに数多くのグラント(45件、総額 $458M)を出して来ていますが、今年もさらに募集が行われました (2011/5/19締切)。(注.ゲイツ財団全体では累計$14.4B拠出)
欧州各国でもグランドチャレンジ問題へのアプローチが進んでいますが、EUレベルでは昨年10月に下記の大きな会がEC(European Commission) 主導で開かれました。
 2nd European Innovation Summit: Tackling the Grand Challenges
- Policy meets Practice. in Brussels, Oct.11-14, 2010
リーダーのJerzy Langer博士が、計画段階から実行段階に移るべきと強調しました。
EU では、2011年3月に、FET (The Future and Emerging Technologies) 旗印プロジェクトとして、今後10年に Billion-Euro ($1.4B) の賞金を出すための選定に入ったと発表しました(Nature March 8, 2011, Nature May 5, 2011) 。すでに応募テーマ21件の中から下記6件が選ばれています。
1.ヒト脳プロジェクト、 2.データ記憶装置用薄膜技術、
3.環境危険検知用ナノセンサー、 4.ボットコンパニオン、
5.行動の環境への影響モデル    6.IT医療技術  
(スイス勢の活躍が目立っています)
  これらについて今年1年のフィージビリティスタディ(各$2.2M)で、最終的に2件が選ばれることになっています。
以上のように、欧米各国では将来を見据えた活発な動きがあります。
このような中で、日本から世界的な観点でどのような発信ができるか、非常に重要な時期であると思われます。このような大きな課題は、国レベルでの動きが重要であり、特に今は震災・原発・エネルギー問題で日本から世界へどう発信するか注目されております。
これとは別のレベルで、今年度から「超チャレンジング研究をどう進めるか」という検討が、未踏科学技術協会の「生命をはかる」研究会の一活動として始まっています。人類的・万人的な「超チャレンジング研究課題」をどう取り上げ、その解決に世界の知・技をどう活用するか、オープンサイエンスの精神をどう貫くか、正に上述の3つの動向を束ねた考え方の下に進めています。様々な制約・枠を外して思い切った発想でいこうとしています。ご関心の強い方は、ホームページをご参照の上、積極的にご参加ください。
皆様、特別な今年の夏を、お元気で乗り切ってください。
                     2011年7月 八尾 徹 yao@riken.jp