お陰さまで、8月1日に東京の三田共用会議所で開催されたポストがん特「次世代がん研究戦略推進プロジェクト次世代がんシーズ戦略育成プログラム」の説明会に190人以上の参加者がありました。あの大講堂がほぼ満員となるのは誠に珍しい。文科省の担当者が「この会議所は国の施設だから自分たちが会場整理をやらなくてはならない。こんなに大変ならもう二度とやりたくない」と官僚らしい嬉しい悲鳴を上げるほど、国内のがん研究者から熱い期待を受けました。2年前にがん特を廃止した結果、がんの撲滅を目指した生命科学研究の資金的飢えはいかに、深刻だったかを実感いたしました。こういう重要な研究の支援は政権交代ごときでふらふらしては、いかんとも思いました。
 2011年度36億円投入するこのプロジェクトは、しかし、がん特とは徹底的に異なる特徴を持っています。言葉は悪いが、がん特は主にマウスのがんを対象に、がんの基礎的なメカニズムの解明と治療コンセプトの開発に留まっていました。つまり、ねずみのがんの治療基礎研究事業とも悪口が言えるものでした。これはヒトゲノム解読以前は、ヒトの生物学が展開できなかった技術的限界を示しています。しかし、今やゲノム情報を手掛かりに、私たちはヒトの生物学を追求可能となりました。今回のプログラムでは、まさにねずみのがん研究から百八十度転換、ヒトのがんの研究に大きく踏み出したことを高く評価しなくてはなりません。
 このプログラムを率いるのは癌研究会癌研究所の野田哲生所長。その下に2つのグループを置いています。革新的がん医療シーズ育成グループのグループリーダーは東京大学医科学研究所の清木元治教授、そしてがん臨床シーズ育成グループのグループリーダーを自治医科大学の間野博行教授が務めます。患者のコホートを活用して、ヒトのがんの生物学を追求するのは主に間野教授らのグループです。結果的にはいずれも個の医療の追求を行うことになります。実際、私たちを臨床上悩ますがんの多様性を解明し、その患者さんの今のがんの状況に最も最適な治療を行うために必要なバイオマーカーの探索します。
 何故、この患者には抗がん剤が効果があり、あの患者には効果がないのか?こうした臨床で医師が直面する疑問を、実際の患者群から提供いただいたヒトのがん組織を対象にオミックス解析して、解くという極めて実践的なプログラムになっています。これならねずみの治療に終わることなく、患者さんを救う可能性が広がります。一番のセールスポイントは、ヒトのがんのエクソーム解析を行うことです。しかも、研究に参加した研究者が勝手にやれということでなく、研究支援基盤チームを設置し、試料調整からゲノム解析・エピゲノム解析、そして情報解析まで、中央のラボで支援する体制を整えました。これによって信頼に足るオミックス研究を保証しようという試みです。予算の制約で、遺伝子領域だけのエクソーム解析に当面は止まっていますが、ゲノム解析のコストは劇的に低下しており、5年間の研究期間の間には全ゲノム解析も可能になると考えています。是非とも迅速に全ゲノム解析に移行することを期待しています。
 がんのヒトの生物学をやるなら、治療法や診断法の実用化まで視野に入れる必要があります。医学は応用生物学ですから、実際の医療を変え、患者さんを救ってなんぼのものだと認識しなくてはなりません。幸い今回のプロジェクトでも、基礎研究から臨床研究でPOCを取得する一貫した研究成果を目指しています。基礎の井戸だけを掘る文科省の研究としては一歩踏み出したと考えます。勿論、このプロジェクトが想定しているPOCは一般的な創薬のPOCである臨床試験フェーズ2の結果までは考えていないのが、まったく物足りないところですが、それでも今まで動物の治療に専念してきた文科省としてはバイオによるヒトの生物学の勃興に正対した、大胆な大型研究であると考えます。
 唯一にして最大の欠点は、企業の参画の道が明確ではないことです。創薬や診断薬を開発する本当の主役は製薬・診断薬企業であり、ベンチャー企業であることを忘れては、ただの学者の遊びとなってしまいます。患者さんのご協力をいただくヒトの生物学では、この態度は非倫理的であると誹られてもしょうがない。現在、我が国に存在するベストの抗がん剤・診断薬のシーズを開発しようという、今回の野望を実現するためにも、我が国の製薬企業は舶来愛好の古臭い頭を変え、少し暖かい目で基礎から支援すべきであると考えます。VEGF、erbB2(HER2)など、今の抗がん抗体の大型医薬の標的は日本の研究者が発見し、米国のGenenech社が実用化しました。また間野教授が発見した肺がんの原因遺伝子(ドライバー)EML4-ALKを標的とした治療薬の開発は米国Pfizer社が先行しています。私たちが過去20年間繰り返してきた過ちを、このプログラムで繰り返すことはもう許されません。
 今、我が国の製薬企業は抗がん剤を主力製品として開発を推進しています。生活習慣病で荒稼ぎした利益で、海外から製品導入するだけでは、縮小再生産の罠に嵌ることは必定です。青い鳥は常に身近にいることを思い起こし、全力でこのプログラムをご支援願いたい。また、文科省もだいぶ軟化しておりますので、我が国の企業が協業しやすい条件整備も、是非このプログラムで実現していただきたいと願っています。
 先週、博多湾でクラゲを目撃しました。今年の夏は短いかもしれません。
 どうぞ、夏をご堪能願います。