女子サッカーのワールドカップ、ウィンブルドンと毎夜大忙しの読者も多いのではないでしょうか?おまけにこの暑さ、そして節電。折角購入した最新式の扇風機でも涼が足りず、エアコンと併用する愚を犯しております。これじゃ節電どころか、埓電です。
 昨日まで、梅雨が明けたばかりの博多に滞在しておりましたが、東京の方が何故か遥かに暑い。九州がんセンターで乳腺科の増田部長にお会いしました。そこで、乳がんに関しては結構深刻な混乱が起こっていることを教えていただきました。このメールでも紹介したことがあるpCR(病理学的完全寛解)がぐらつき始めたのです。pCRは、乳がん患者に化学療法を行った後に乳房を切除、5mm毎に切片を作り、病理学的に生きているがん細胞を顕微鏡でチェックして、がん細胞の残存が認められなかったことを意味しています。今までの乳がんの治療では、pCRになればその患者さんの5年生存率はかなり高く、そうでない場合は手術後の化学療法などを選択する必要があると看做されていました。つまりpCRを目的に治療が行われており、それが達成できれば患者さんの乳がんは治癒できた、「良かった」と考えられていたのです。
 当然のことながら、臨床試験もpCRをまず目指していました。最終的な全生存率を示すサロゲートマーカー(早期に予測するために代替バイオマーカー)だとpCRを認識していたためです。それが悲観的に言えば半数以上の乳がん患者ではpCRが予後を占うことができない、楽観的に言えば少なくともエストロジェン受容体(ER)陽性、HER2陽性の患者では予後を予測できないということが明らかになったのです。まったく科学は残酷です。「乳房にがん細胞が病理学的に残っていないのだから、予後は良いはずだ」という私たちの常識を破壊してしまいました。まるで、乳がんの治療は羅針盤を失ったようなものです。pCRでは予後を予測できない患者の治療効果を示すバイオマーカーの探索が必要となったのです。個の医療の立場から見れば、pCRが有効な患者群が選別され、それ以外の患者群では予後予測のバイオマーカーがまだ見つかっていないということです。今後、作用機構が斬新な新薬が出ればでるほど、患者群の細分化が進むかも知れません。可能ならば、数種の作用機構の異なる医薬品をとっかえひっかえ使用して、薬剤耐性の出現による治療薬の枯渇を防ぐ手立ても必要でしょう。どこまでも患者群を細分化してしまっては、市場メカニズムによる新薬開発が投資回収できず袋小路に入ってしまう恐れもあります。乳がんを克服する新薬のセットとそれに対応する患者群を同定するバイオマーカーが、究極の乳がんの治療薬となるでしょう。そのためにも、がんの増殖や転移に関係するシグナル伝達ネットワークに関与する分子を標的と医薬品の併用療法の開発は、どうしても必要です。
 しかし、皮肉なことに分子標的薬の併用療法の臨床試験の成績がpCRが無力な患者群が存在することを暴いてしまったのです。
 今月の上旬に米国Chicagoで開催されていた米国臨床腫瘍学会(ASCO2011)で、ドイツの Frankfurt大学のGunter von Minckvitz教授のセッションで、乳がんの増殖に関与する上皮細胞成長因子受容体2(HER2、ErbB2)のシグナル伝達を阻害する抗体医薬「ハーセプチン」とHER2と上皮細胞成長因子受容体(ErbB1)のチロシンキナーゼを阻害する「タイケルブ」の乳がんに対する併用療法の3つのフェーズ2臨床試験の成績が発表されました。
http://chicago2011.asco.org/ASCODailyNews/HER2Study.aspx
 3つの臨床試験の成績を見る限り、HER2陽性でER陽性の患者群ではpCR率が完全寛解率とはいずれも相関していません。このセッションではもはやpCRが予後予測に活用できない患者群の存在を認め、Fox01、14 pSTAT5、p95HER2など新しいバイオマーカーを評価していました。Minckvitz教授は「併用療法は乳がんの治療に貢献する可能性がある。しかし、今回示されたバイオマーカーはまだ多数の患者さんで検証する必要がある」と結論付けました。乳がんの新薬臨床試験のプライマリーエンドポイント(最初の治療評価)であるpCRがぐらついた結果、乳がんの新薬の臨床試験は漂流しかねない、危機に曝されています。現在、医師に限定して公開中の「コンセンサスエンジン乳がん」でも、ASCO2011のトピックスとしてこの問題が、触れられています。7月にこの議論は公開します。秋には「pCRの臨床的意味」というテーマでじっくり、コンセンサスエンジンで専門医の議論を進める計画です。
https://bioce.nikkeibp.co.jp/breastcancer/
 さて、個の医療実現のために、バイオマーカーの探索はまだまだ進めなくてはなりません。私は我が国が世界をリードしている糖鎖研究に期待を持っています。7月11日から日本糖質学会が開催されます。お砂糖の学会だと誤解している方も居りますが、最近ではバイオマーカーや創薬標的の発表が増えています。今回も、ヒトの癌や自己免疫疾患Tn症候群、イムノグロブリンA腎症の原因分子、Cosmcとそれを創薬標的とした新薬開発の発表や、がんに取り込まれて始めて発光する蛍光標識を結合したがん特異抗体による開腹外科手術など面白い発表があります。世界の研究者が無視する中、黙々と我が国の研究者が継続してきた研究が開花しようとしているのです。詳細は下記よりアクセス願います。
http://www.gak.co.jp/jscr/30nenkai.html
 どうぞ皆さん、今週もお元気で。