週末は全仏オープンの決勝が行われました。下馬評とは裏腹に、自信を失って生彩を欠いていたスペインのラファエル・ナダルが、スイスのフェデラーを一蹴してしまいました。この二人の高度な戦いの前には、下馬評で本命だった絶好調のジョコビッチも影がすっかり薄くなりました。しかし、今回の大会のメインイベントは女子の決勝で、中国の李娜がアジア人選手として初めてグランドスラムを制したことです。素晴らしいフィジカルと理にかなったフォームが繰り出す、フォアのウィナーは昨年の覇者で、技巧派のスキアボーネを寄せ付けませんでした。勝利のプレッシャーから、6:6に追いつかれた第二セットのタイブレークを、まるで別人のように7:0で勝利を収めたのは見事としかいえません。合計で60歳を超える対決で揶揄する向きもありましたが、李娜は正真正銘のグランドスラム・チャンピョオンです
「用運動改変一切」(スポーツを用いて、一切を変える)と胸に書いたTシャツを着た記者会見は、国家管理に反発して2年間もテニスから遠ざかり、北京オリンピックで復帰後、更なる高みを目指し、ドイツに移住した李娜の気持ちの現れです。国家管理によるスポーツ振興が、資本主義と自由による個人が責任を持つスポーツに劣ることを示しました。中国各紙は個性によるスポーツの衝撃と報道しているようです。科学もスポーツほど分かり易くはありませんが、個人のモチベーションが研究進展の鍵を握っております。国家管理の科学プロジェクトや古臭い頭の審査員が科研費の書類選考を行っている我が国の状況を改め、若者が野心を燃やして、科学に打ち込む場、つまり科学のローランギャロスをどうやって我が国に創るか、これが我が国の大きな課題です。そうでないと、科学の国家管理による停滞がますます進む懸念があります。
http://www.rolandgarros.com/en_FR/multimedia/2011-06-04/01305bd2d6100000029a.html
 さて、バイオです。
 3週間前のメールで報道しましたが、昨年の末から今年に入って、iPS細胞研究に対するバッシングが一段と厳しくなっております。
http://blog.nikkeibp.co.jp/bio/miyata/2011/05/207359.html
 やれ、エピジェネティクスの初期化が特定の遺伝子部位で生じる。初期化の過程でがん遺伝子抑制遺伝子の脱落が起こる。不適切な培養の結果、がん遺伝子の重複などが起こる。iPS細胞に抗原性がある。そして極めつけは、ヒト皮膚の線維芽細胞からiPS細胞が生じるのは、特殊な多能性でありながら増殖力の弱い細胞Muse細胞だけであるという東北大学の出澤教授の論文(PNAS)です。無批判に新聞がこうした研究を取り上げた結果、市民の間では混乱が生じています。
 しかし、これらの論文を一読しただけで、科学論文としては証明が不十分なまま、科学的な証拠から語れる以上のことを主張していることは、明白であります。例えば、出澤先生が主張しているMuse細胞から0.03%の割合でiPS細胞を樹立できたが、Muse細胞以外のヒト線維芽細胞からは0%のiPS細胞しか樹立できなかったという報告です。山中教授らの研究所ではルーチンにヒト皮膚由来の線維芽細胞から、0.1%から0.5%の効率でiPS細胞を樹立していることを考えると、一体、0.03%の樹立効率で、すべてのiPS細胞の樹立を論議する意味があるのか?この30倍もの樹立効率の違いを議論せずに、ヒト繊維芽細胞からはMuse細胞からだけがiPS細胞となると結論することができるのか?私は極めて疑問であると思っております。よしんば実験に間違いはなかったとしても、これは言い過ぎであります。また、T細胞やB細胞の前駆細胞、インスリン生産細胞、肝臓のアルブミン生産細胞などかなり分化の進んだ細胞から4因子などにより、iPS細胞が樹立され、しかも追試されていることを見ると、ますますエリート細胞(一部の細胞)だけがiPS細胞に初期化できるという説は、疑わしくなります。
 確かに、09年に米Stanford大学のグループがヒト線維芽細胞にはMuse細胞に発現している特殊な糖鎖抗原、SSEA-3の発現量に差があり、この抗原の発現量が高い細胞集団がiPS細胞に変わり易いという論文を報告しています。出澤教授らの論文はこれの追試としては意味があるかも知れませんが、Muse以外、ヒト線維芽細胞ではiPS細胞にならないというには証拠不十分です。当初、細胞をばらばらにする蛋白分解酵素処理に耐久性のある細胞として定義されたMuse細胞の詳細な生物学的な定義も含め、iPS細胞はエリート細胞に由来するのか?あるいは、偶然のプロセスによってiPS細胞となる細胞が決まるのか?明白にしていただきたいと思っております。こうした研究は最終的には、iPS細胞を誘導する初期化のメカニズムを解明する道に繋がります。
 ただし、報道する側としては、科学者が絶対的信仰を寄せるピアレビュージャーナルのリビューアー達にもっとしっかりしていただきたいと思うばかりです。こんな論文審査状況では、ただでさえ国際的な生命科学研究の隆盛のために、この領域の論文が鰻上りに増加しても、質を維持できない。そのためにノイズばかりになる可能性があります。科学的な真実は追試によってのみ確かめられます。論文発表しただけでは科学的な真実ではありません。単なる仮説提唱であり、第三者が追試してみて初めて、科学的な真実とみなされるのです。生命科学の論文のデータベースを作成しているトムソンのデータでは、一流科学誌に掲載された論文の30%しか、その後引用されていません。つまり、追試が記述される可能性は低いのです。言いっぱなしの状況にある論文を、「一流雑誌に掲載された」ということを根拠に、私達が信じて報道せざるを得ないような末期的な状況は、是非とも科学者の良心に賭けて改善していただきたい。勿論、メディアも研鑽を積まなくてはなりませんが、現在の科学記者不足ではとても責任を負いかねます。
 もう論文過多で、ピアレビューでは対応できないというなら、追試が成功した論文に研究者がリンクを張り、信頼性を記名にて確保するなど、新しいウェブ技術を活用した技術突破を行わなくてはならないのではないでしょうか?科学論文より、新聞ばかり読んで政策立案する癖がある、我が国の政府も参加する、科学者→科学誌→メディア→政府→科学者→という”悪のサイクル”により、論文の質の低下は、その質の低下に乗数をかけて、科学者の環境にも悪影響することを認識しなくてはなりません。もう論文の質の低下とピアレビューの質の低下は看過できない問題となっております。私は、追試の結果の情報公開こそ、解決の鍵を握っていると思います。それを国家管理ではなく、資本主義の下に自由競争でどうやって実現するのか?知恵の絞りどころです。
 さて、日経バイオテクの河野副編集長が企画した「分子標的薬の創製と開発の最前線」を6月17日に開催いたします。場所は東京・品川のコクヨホールです。現在、分子標的薬の主流はキナーゼ阻害剤ですが、今年のセミナーではmiRNAやたんぱく質間相互作用といった次世代の標的も取り上げます。セミナーの詳細と参加申し込みは以下のサイトをご覧ください。
http://bio.nikkeibp.co.jp/bio/seminar/110617/
 どうやら今週、山中所長が次の技術突破を発表するらしい。今頃、京大で、この件も含めて、怒りの会見を開催しているはずです。最先端の研究成果を追求し、世界と鎬を削っているiPS細胞研究所のチームがバッシングに対抗するために、守備的な研究に時間を割かれることは、誠にもったいない。
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/oc/2007/9506/
 どうぞ、皆さん、お元気で。