ワールドカップも注目ですが、今週からテニスのウィンブルドンも始まってしまい、しかも仕事も佳境を迎えるという大忙しです。現在、ウィンブルドンの一回戦で、錦織選手が世界ランク1位のナダルと当たり、大健闘しています。ショットの多彩さと強さは、ナダルを上回っているほどです。ナダルはワンチャンスを活かし、2セットリード。錦織は攻めて、攻めて、攻めていますが、試合巧者の差、つまり経験の差だけがスコアに現れています。例えこの試合に負けても、錦織選手は成長を重ねていけば、間違いなくトップ10に入れる才能があることを印象付けたと確信しています。
 さて個の医療です。個の医療の発展にも、研究者の才能と献身が必要です。
 我が国でも、2010年3月から臨床試験(フェーズII/III)が始まった肺がん治療薬、crizotinib(EMLA4-ALK阻害剤)は、次の個の医療の主役となる抗がん剤です。この抗がん剤の標的であるEMLA4-ALKは、染色体転座の結果生じた融合遺伝子です。微小管形成たんぱく質のEMLA4と受容体型チロシンキナーゼのALKの融合たんぱく質であるEMLA4-ALKは、ALKのリガンドがなくても常に2量体を形成、細胞増殖のシグナルを出し続ける結果、細胞をがん化していました。
 融合たんぱく質は細胞増殖のエンジンそのもの。EMLA4-ALKを阻害すれば、がんの増殖を抑止できる可能性がありました。たまたま、米Pizer社が開発中であったcrizotinibが、EMLA4-ALK阻害剤であることが判明しました。従来は肝臓細胞増殖因子受容体キナーゼ(c-MET)阻害剤として開発していた方針を転換、EMLA4-ALK融合遺伝子を持つ非小細胞肺がんの治療薬として臨床試験を加速しました。Pfizer社は極めて幸運だったと思います。今月、Chicagoで開催された米国臨床がん学会(ASCO)でも、crizotinibのフェーズI/IIの結果が発表されました。59%の患者に治療効果があったというデータに注目が集まりました。
 肺がんの10%から15%程度が、EMLA4-ALKが原因であると推定されています。しかも、肺がんで先行した標的医薬、イレッサが治療対象とする上皮細胞成長因子受容体に変異とはEMLA4-ALKは共存しないことが判明しています。イレッサの治療対象でない肺がんに、EMLA4-ALK阻害剤が効果があるがんが含まれているのです。肺がんも、乳がんのように、がんの遺伝変異や細胞上の受容体の有無を手掛かりに、分子レベルで乳がんを細分類できるようになりました。そしてこの分子レベルの分類によって、治療薬を使い分ける個の医療の時代が、肺がんにも近いうちにやってくるのです。
 実は、染色体転座によってがんが生じることは、造血器腫瘍では知られていました。慢性骨髄性白血病では、染色体転座によってBcl-Ablという融合遺伝子が生じ、この遺伝子産物であるBcl-Ablチロシンキナーゼが増殖シグナルを発生しつづける結果、がん化していました。実際、Bcl-Ablチロシンキナーゼの阻害剤、グリベックは慢性骨髄性白血病の特効薬となり、2001年に米国で発売されました。がんの分子標的薬の先駆けともなりました。
 しかし、染色体転座によるがん化は造血器の腫瘍に特異的な機構であると、2007年まで信じられていたのです。この神話を打破したのが、当時自治医科大学ゲノム機能研究部教授で、現在は東京大学大学院医学系研究科特任教授も兼務している間野博行氏でした。わずか1万個のがん細胞から抽出したmRNAからcDNAライブラリーを作成する独自技術を駆使し、とうとう62歳のヘビースモーカーの肺がん患者からマウスの線維芽細胞をがん化させる遺伝子を発見しました。これがEMLA4-ALK遺伝子だったのです。「研究費の少ない日本では独自技術を開発しなくては、国際競争に勝てない」という間野氏の洞察力と、来る日も来る日もがん細胞のcDNAライブラリーを線維芽細胞に導入して、培養を続けるという献身が、固形がんでも染色体転座によりがんが生じるという新発見と、EMLA4-ALKの阻害剤の開発に結実しました。我が国の企業、多分A社とEMLA4-ALK遺伝子の阻害剤開発を間野氏らは行っており、Pizer社を猛烈に追い上げるEMLA4-ALK阻害剤の登場も間近かも知れません。
 但し、悩ましいのはグリベックでも問題が生じていますが、急性疾患を慢性疾患に変えただけではないかという批判です。慢性骨髄性白血病の患者さんはグリベックの実用化により、グリベックを飲み続ければ生命の危険は遠のきました。しかし、お隣韓国では、グリベックの高額な医療費負担に耐えかねて、患者団体が政府に圧力をかけ、薬価を引き下げ、政府の支援を増額させました。EMLA4-ALK阻害剤も単に、肺がんの進行を抑止し、慢性疾患化するだけでは、医療経済の壁にぶち当たることが見えています。EMLK4-ALK阻害剤によって、がんを病巣を完全に消失し、医薬品の離脱が可能にするか、がん病巣を縮小して、外科切除可能とする治療法の開発が、実現することを期待しています。EMLK4-ALK阻害剤とグリベックは生存期間を半年程度延長するだけの他の分子標的薬よりは、はるかに医療に貢献します。それを認めつつもなお、慢性化ではなく、がんの根治をなんとしても目指していただきたい。手術や放射線療法との組み合わせが、EMLK4-ALK阻害剤の価値増大の鍵を握っているような予感がいたします。
 こんなに良い薬が出来そうだということで、くれぐれも禁煙を止めても良いという誤解だけはなさらぬように。予防に勝る治療法はありません。
 今週もどうぞお元気で。